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世界遺産の愉しみ 第12回   2023年5月20日 大宮 誠       

京都 清水寺『古都京都の文化財』
 連載を開始してもう1年になります。旅行もほぼコロナ以前の状況に戻りつつありますが、高齢者にとっては油断禁物です。観光地の混雑でいつも映像が流れるのが、嵐山の渡月橋と清水寺にのぼる産寧坂です。ゴールデンウイークのニュースでは、期待にたがわず清水寺の混雑状況が伝えられました。最終回の今回はその「清水寺」をみたいと思います。

歴史
 平安京では公的な寺院は東寺と西寺に限定して、それ以外の寺院は平城京からの移転を認めなかった。塔や金堂や講堂、三面僧房や食堂を持つ巨大な都の平地式伽藍の時代は、東寺・西寺で一旦終わっている。密教の導入や浄土思想の影響により、堂舎の建築が変化し、また山地など地理的制約が加わり、伽藍は従来とは異なるものとなった。
 清水寺は、平安遷都まもない延暦年間に、乙輪山(音羽山)で練行していた法相宗の僧賢心(後に延鎮)を、この地に山荘を作った蝦夷征討に功があった坂上田村麻呂が、延暦17年(798)に開山として招いたのが創建と伝えられる。十一面観音を造像・安置して清水寺と称し,延暦24年(805)田村麻呂の私寺として承認されたとある。また同年に桓武天皇の勅願寺となり寺地が認められた。
 中世・近世には興福寺の末寺となり,祇園感神院(八坂神社、比叡山延暦寺の末寺でもあった)との対立や興福寺と延暦寺との抗争にまきこまれ,しばしば堂舎の焼打にあった。創建後9回の火災焼失の都度再建されている。寛永6年(1629)の火災の難を逃れた15世紀後半建造の馬駐(うまとどめ)、仁王門、慶弔12年(1607)建造の鐘楼以外は、1630年代に徳川家光の援助により寺観が整備された。なお、清水寺が北法相宗の本山として独立したのは1965年である。


伽藍
 主要伽藍は、西門、三重塔、経堂、開山堂、朝倉堂、本堂、阿弥陀堂が西から東に並び、本堂の西に轟門、北に鎮守社である地主(じしゅ)神社の社殿、阿弥陀堂の南北に奥の院、釈迦堂が位置している。この現在見られる景観は15世紀末には成立していた。その後、18世紀後期に本堂の修理が行われ、19世紀中期には伽藍全体で維持修理が行われている。
 国宝本堂の他、三重塔、地主神社の本殿、拝殿など18棟の重要文化財建造物、江戸時代初期の借景式庭園である名勝指定の成就院庭園がある。


清水寺本堂(国宝)
 国宝の本堂は1633年に再建されたものであり、山の中腹に建つ大規模なこの建築は、前半部が崖に乗る形になり、縦横の貫によって結ばれた高い束柱が支える「懸造(かけづくり)」の構造となっている。本堂は内・外陣に分かれ、内陣は石敷きの床に化粧屋根裏、外陣は板敷きで、密教本堂の形式を伝えている。大きな檜皮葺寄棟造の全面左右に翼廊を突出させ、複雑な屋根を巧みに処理している点など、意匠的にきわめてすぐれた江戸初期の代表的な和洋の建築である。
 懸造(かけづくり)の形式は平安時代からあり、石山寺、長谷寺などでも古くから行われていた。岩や崖にもたせ懸けて造られ床の一部が長い柱で支えられている。この特異な形式は、神仏混淆(しんぶつこんこう)、特に山海での修験(しゅげん)によって生み出された。【写真1】【写真2】

【写真1】本堂と懸造
本堂と懸造
【写真2】清水の舞台
清水の舞台

馬駐(うまとどめ、重要文化財)
 馬をつなぐ施設。貴族や武士は、この馬駐(うまどめ)に馬を繋いで徒歩で諸堂を参拝した。現在の建物は応仁の乱後(室町後期 1467-1572)に再建されたもので、五頭の馬を繋ぐことができる。【写真3】

【写真3】馬駐
馬駐

仁王門(重要文化財)
 清水寺の正門。応仁の乱の戦火で1469年に焼失したが、1500年前後に再建された。正面約10メートル、側面約5メートル、棟高約14メートルの、再建当時の特徴を示す堂々たる楼門である。一対の狛犬が仁王門前に建立されている。双方共に「阿形(あぎょう)」の形に口を開いた珍しい形式である。【写真4】

【写真4】仁王門と狛犬
五重塔

西門(重要文化財)
 現在の建物は1633年再建のもの。ここから見る西山の日没は、極楽浄土に往生する入り口の門、浄土を観想する日想観(にっそうかん)の聖所である。
 日想観とは、時と場所を選ばないもっともシンプルな修行法。西の空に沈む夕暮れの太陽を見つめ、朱く染まった空に極楽浄土を想うだけで、釈迦の教えを体感することができるという。【写真5】残念ながら夕陽の沈む写真は持ち合わせていない。

【写真5】西門
西門

鐘楼(重要文化財)
 平安期に建造され、江戸時代中期の1607年に現在の場所に再建・移築された。【写真6】桃山建築様式の粋を凝らしたつくりで、牡丹彫刻の懸魚(けんぎょ)や菊花彫刻の蟇股(かえるまた)、四隅の柱の先にある獏と象の木鼻などが見所である。【写真7】

【写真6】鐘楼
鐘楼
【写真7】牡丹彫刻の懸魚や菊花彫刻の蟇股
牡丹彫刻の懸魚や菊花彫刻の蟇股

三重塔(重要文化財)
 高さ約30メートル。国内最大級の三重塔で、京都の街からよく望見できることから古くから清水寺のシンボル的な存在。創建は847年、現在の建物は江戸時代の1632年に再建されたものである。大日如来像を祀り、四方の壁に真言八祖像、天井・柱などには密教仏画や龍が極彩色で描かれている。【写真8】

【写真8】三重塔
三重塔

子安塔(重要文化財)
 聖武天皇・光明皇后の祈願所と伝えられているが詳しい創建年代は不明。現在の建物は1500年に再建されたもの。檜皮葺の三重塔の内部には、子安観音(千手観音)をお祀りし、その名の通り安産に大きな信仰を集めてきた。【写真9】

【写真9】子安塔
子安塔

  清水寺は、本堂が檜皮葺寄棟造で落ち着いたシックな建物であるのに対し、他の堂塔は朱塗りが施され、対照的なものになっています。押し寄せる多くの外国人観光客はどちらを好むのか気になるところです。
 今回をもちまして「世界遺産の愉しみ」は終了となります。1年間お付き合いをいただき有難うございました。


挿入写真 筆者撮影
参考文献
 海野聡『日本建築史講義 木造建築がひもとく技術と社会』(学芸出版社、2022年)
 日本建築学会編『日本建築史図集 新訂第三版』(彰国社、2011年)

 太田博太郎・藤井恵介監修『[増補新装カラー版]日本建築様式史』
 (美術出版社、2018年)
 NPO法人世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典〈上〉第2版』
 (NPO法人世界遺産アカデミー、2020年)

 中村元ほか編『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店、2002年)
 文化庁『国指定文化財等データベース』https://kunishitei.bunka.go.jp/
 日本史広辞典編集委員会編『山川・日本史小辞典(改訂新版)』(山川出版社、2016年)


執筆者紹介
大宮 誠 氏
 新潟大博士(文学)
 元 三条地域振興局長
 元 新潟経営大学観光経営学部教授
 現 新潟日報カルチャースクール「旅する世界遺産」講師

※当サイトの内容、画像等の無断転載を禁止します。








世界遺産の愉しみ 第11回   2023年4月20日 大宮 誠       

奈良その3 興福寺『古都奈良の文化財』
 今回は法相宗の大本山興福寺です。和同3年(710)の平城遷都にともなって大和国高市郡から平城京に移転してきました。平安時代以降、たびたび火災にあっていますが、藤原氏の力を背景にそのつど再建されてきました。北円堂(鎌倉時代)・三重塔(鎌倉時代)・五重塔(室町時代)・東金堂(室町時代)の4棟が国宝建造物に指定されています。伽藍配置とこれらの建造物をみていきましょう。

歴史
 興福寺は天智8年(669)に前身寺院山階寺(やましなでら)が創立されたのがはじまりである。その後山階寺は大和国高市郡厩坂に移設、厩坂寺(うまさかでら)と称された。さらに平城遷都にともない藤原不比等(ふひと)が、この厩坂寺を平城京左京3条7坊に再度移設し、興福寺となった。天皇や皇后、また藤原氏の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになった。
 平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たった。文禄4年(1595)の検地では「春日社興福寺」合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においてもその面目は保たれた。 しかし、明治政府が布告した神仏分離令により、全国各地の寺院と同様に興福寺も大きな被害を受けた。興福寺の僧は全員、春日大社の神官となったため寺は無住となり廃寺とされた。鎌倉時代の食堂(じきどう)や細殿(ほそどの)など多くの堂が破壊され、土塀や門も撤去され他の用途に転用された。有名な五重塔が三重塔とともに売りに出されたのもこのころである。「打壊す費用はないから、火を放って露盤九輪等の金目のものを焼落して拾い取ろうとしたが、何分にもあの高い建物に火を放てば、近辺が危険であるということで、見合わされた」という。(興福寺HPでは「これはあくまでも伝承の域を出ない」としている)。
 明治14年(1881)興福寺の再興が認可され、明治30年(1897)には古社寺保存法公布され、北円堂・三重塔・五重塔が特別保護建造物に指定された。


伽藍
 前回の東大寺でみたように奈良時代になると、塔は金堂を囲む回廊の一角から外れて建てられた。興福寺も同様に中金堂から少し離れたところに東金堂と五重塔が建てられた。元明太上天皇・元正天皇・聖武天皇や光明皇后をはじめ、藤原氏が関わった興福寺の造営は奈良時代後期にほぼ完了したものと考えられている。
 興福寺は元慶2年(878)に最初の火災を経験し、以後、延長3年(925)、寛仁元年(1017)、永承元年(1046)・同4年(1049)、康平3年(1060)、嘉保3年(1096)と立て続けに大小の火災にあったが、なかでも、最大規模として記録されるのが治承4年(1180)の大火である。これは平清盛が子の重衡に南都進攻を下知し、南下した軍勢と南都勢の合戦から起こったもので、興福寺や東大寺が炎上した。特に興福寺は全山焼亡に等しいまでに延焼した。


中金堂(ちゅうこんどう)
 釈迦三尊を安置するために、和同3年(710)から建てられたのではないかといわれている。焼失と再建を繰り返しており、享保2年(1717)の火災の後、一回り小さな仮堂として再建された。本格的な復元が叶わなかったが平成30年(2018)にようやく再建された【写真1】。

【写真1】中金堂
中金堂

東金堂(とうこんどう)国宝
 中金堂の東側にある金堂で、東金堂と呼ばれる西向きのお堂である。神亀3年(726)聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病の平癒を祈って建てた。唐招提寺の金堂にならった天平様式で創られている。本尊は薬師如来像で、日光・月光菩薩像、文殊菩薩像、維摩居士像(ゆいまこじぞう)、四天王像、十二神将像が安置されている。なお、日光・月光菩薩像は奈良時代のものである。創建当初は床や須弥壇などに緑色のタイル(緑釉塼/りょくゆうせん)が敷きつめられ、薬師如来の東方瑠璃光浄土(とうほうるりこうじょうど)の世界が表されていたといわれている。
 その後5度の被災・再建を繰り返し、現在の建物は室町時代の応永22年(1415)に再建された。前面を吹き放しとした寄棟造で、組物である三手先斗栱(みてさきときょう)が多用されるなど、創建当初の奈良時代の雰囲気を色濃く伝えている【写真2】。

【写真2】東金堂
東金堂

五重塔 国宝
 塔は仏舎利をおさめるための墓標で、この塔は、天平2年(730)興福寺の創建者である藤原不比等(ふひと)の娘光明皇后の発願で建立された。その後5回の焼失・再建を経て、現在の塔は応永33年(1426)頃に再建された。高さが50.1mあり、これは木造の塔では京都にある東寺の五重塔に次いで2番目の高さである【写真3】。創建当初の位置に再建され、三手先斗栱(みてさきときょう)と呼ばれる組物【写真4】を用いるなど奈良時代の特徴を随所に残しているが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れている。
 *三手先斗栱:柱から外方に斗(ます)組みが三段出ていて、三段目の斗で、丸桁(がぎょう)を支えるもの。金堂や塔に用いられる。

【写真3】五重塔
五重塔
【写真4】三手先斗栱(みてさきときょう)
三手先斗栱(みてさきときょう)

北円堂(ほくえんどう)国宝
 日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、興福寺の創建者藤原不比等の1周忌にあたる養老5年(721)に元明・元正天皇が、長屋王に命じて建てさせたものである。興福寺伽藍の中では西隅に位置しているが、ここは平城京を一望の下に見渡すことのできる1等地で、平城京造営の推進者であった不比等の霊を慰める最良の場所であった。治承4年(1180)の被災後、承元4年(1210)頃に再建された。華麗で力強く、組物に三手先斗栱(みてさきときょう)が使われるなど、創建当初の姿をよく残しており、内陣の天井には中央の大蓮華より光を放つ天蓋(てんがい)が輝き、組物間の小壁ある彩色された笈形(おいがた)が特徴的である。興福寺に現存する建物の中では最も古い建物の一つに入る【写真5】。

【写真5】北円堂
北円堂

南円堂(なんえんどう)重要文化財
 弘仁4年(813)、藤原冬嗣が父の内麻呂を弔うために建てた八角円堂である。現在の建物は創建以来4度目のもので、寛保元年(1741)に立柱、寛政元年(1789)に再建された。再建には古代・中世の北円堂などの円堂を参考にしたと考えられているが、正面(東)には間口1間・奥行2間の「拝所」があり、唐破風(からはふ)が付いているなど、江戸時代の細部様式もよく表している【写真6】。本尊は不空羂索観音菩薩像(ふくうけんさくかんのんぼさつぞう)、四天王像が安置されている。
 *唐破風:中央部を凸型に、両端部を凹型の曲線状にした破風のこと。 破風とは、東アジアに広く分布する屋根の妻側の造形。

【写真6】南円堂  正面に唐破風がみえる
南円堂

三重塔 国宝
 康治2年(1143)に崇徳(すとく)天皇の中宮の皇嘉門院(こうかもんいん)聖子が建てた。治承4年(1180)に焼失し、間もなく再建されたといわれている。北円堂と共に興福寺で最古の建物である。木割が細く軽やかで優美な線を醸し出し、平安時代の建築様式を伝える【写真7】。

【写真7】三重塔
三重塔

 興福寺を訪れてみると、公園の一角に立っているような感覚になり、他の寺院と全く違います。これは、廃仏毀釈により堂宇が破壊され、土塀や門が撤去され、さらに明治13年(1880)、興福寺旧境内は奈良公園となり、興福寺が創建時の面影をとどめていないことが原因のようです。次回最終回は、観光客で賑わう京都・清水寺をみてみましょう。


挿入写真 筆者撮影
参考文献
 海野聡『日本建築史講義 木造建築がひもとく技術と社会』(学芸出版社、2022年)
 日本建築学会編『日本建築史図集 新訂第三版』(彰国社、2011年)

 太田博太郎・藤井恵介監修『[増補新装カラー版]日本建築様式史』
 (美術出版社、2018年)
 NPO法人世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典〈上〉第2版』
 (NPO法人世界遺産アカデミー、2020年)

 中村元ほか編『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店、2002年)
 文化庁『国指定文化財等データベース』https://kunishitei.bunka.go.jp/
 奈良市ホームページ https://www.city.nara.lg.jp/
 興福寺ホームページ https://www.kohfukuji.com/


執筆者紹介
大宮 誠 氏
 新潟大博士(文学)
 元 三条地域振興局長
 元 新潟経営大学観光経営学部教授
 現 新潟日報カルチャースクール「旅する世界遺産」講師

※当サイトの内容、画像等の無断転載を禁止します。







世界遺産の愉しみ 第10回   2023年3月20日 大宮 誠       

奈良 その2 東大寺『古都奈良の文化財』
 東大寺は、仏の加護により国家を鎮護しようとした聖武天皇の発願で建立されました。751年に大仏殿が完成し、翌年には盛大な大仏開眼供養がおこなわれました。本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像です。1180年と1567年に兵火にあい主要伽藍を焼失しましたが、そのつど再建されました。現存する大仏殿は1709年に再建されたもので、世界最大規模の木造建築物としての威容を誇っています。

歴史
 743年に聖武天皇は紫香楽宮(740年から5年間に伊勢行幸、恭仁・難波・紫香楽と遷都)で大仏造顕の詔を出した。その中で、国内の銅を使い尽くしても巨大な像をつくる決意を述べるとともに、広く人々の協力を呼びかけている。造営は紫香楽宮に近接した甲賀寺で始まった。工事は順調に進み、大仏の背骨となる巨大な柱が立てられていたが、745年5月、都が平城京にもどったため、甲賀寺での造営は中止となった。改めて廬舎那大仏造営の地に選ばれたのは、平城京の金光明寺であった。ここは、聖武天皇と光明皇后の亡き皇太子基(もとい)を供養するために728年に建てられた金山房(後の金鍾山寺)で、741年に国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられたのにともない、昇格して大和国国分寺(金光明寺)となっていた。747年、金光明寺写経所が東大寺写経所と改称され、東大寺という寺の名が成立した。
 745年8月、盧舎那大仏の造像工事が始まり、749年仏身が鋳造、同時に大仏殿の建立も進んで、752年に僧1万人の読経の声が鳴り響く、盛大な開眼供養会が営まれた。その後、西塔や東塔、講堂や三面僧房などが造東大寺司の手によって造営され、東大寺としての七堂伽藍が順次整った。
 平安時代に入ると、855年の大地震によって大仏の頭部が落下し、真如法親王によって修復されたものの、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊した。しかも1180年に平重衡の軍勢により大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼かれた。しかし翌年には60歳の俊乗房重源が東大寺造営勧進職に任ぜられ、宋人の鋳物師陳和卿と共に復興事業が着手された。1185年に後白河法皇を導師として大仏の開眼供養が行なわれた。翌1186年に周防国が東大寺造営料所に当てられてから復興事業は着々と進み、1195年に大仏殿落慶供養が行なわれ、1199年に南大門が上棟した。
 しかし、1567年には三好・松永の乱が起こり、二月堂や法華堂、南大門や転害門、正倉院や鐘楼などわずかな建物を残して灰燼に帰した。戦国時代であったから、東大寺の復興は難渋をきわめ、大仏の仏頭も銅板で覆う簡単な修理しかできなかった。ようやく江戸時代に入って公慶上人が諸国勧進と諸大名の協力を幕府に懇願して復興に取りかかり、その結果、大仏の開眼供養が1692年に、さらに大仏殿の落慶供養が1709年に行なわれた。以後、伽藍の整備は歴代の大勧進職によって続行された。


伽藍配置
 伽藍配置は、奈良時代になると変化する。それまでは、金堂も塔もどちらも伽藍の中心にあり重要であるというのがもともとの発想であった。しかし、次第に法会(仏法に関するあらゆる行事・儀式・集会)に金堂の全面の空閑地を使うことが増えてきた。儀式のための大空間を確保するため、空閑地にある塔が邪魔になり、廻廊の外に出してしまうようになった。
 東大寺の伽藍配置をみてみよう。東大寺の正面玄関にあたるのが南大門(鎌倉時代)である【写真1】。重源が入宋してもたらした「大仏様(だいぶつよう)」という新様式によって再建された。粗削りな感じがするが美しく力強い構造である。柱(直径約1m、長さ9m)は上の屋根まで一本で伸びていて、柱の途中に挿肘木(さしひじき)を何段も差し込み、上にいくほど長くして、上下の屋根の軒先を支えている【写真2】。

【写真1】南大門
南大門
【写真2】南大門 上を見上げたもの
南大門 上を見上げたもの

 南大門をくぐると、かつては東西に七重塔がそびえたっていた。高さは木造の塔身部分とその上の相輪をあわせて100m位ではなかったかと考えられている。西塔は934年雷火で焼失、東塔は1180年兵火で焼失、1227年に再建されたが、1361年雷火で再び焼失した。今は土壇が残されているだけである。
 【写真3】。1180年と1567年の二度の兵火焼失後、江戸時代の1709年に落慶したのが、現在の大仏殿である。奈良時代の大仏殿は桁行11間、梁間6間と非常に巨大な建物であったが、江戸時代には、桁行7間、梁間6間と当初の大仏殿から両脇が削られやや小さくなっている。これは当時財政難で縮小せざるを得なかったようである。

【写真3】
大仏殿

 752年に開眼した大仏は、尻部が亀裂しはじめたので、9世紀前半に背後に巨大な土山を築いてささえた。855年に仏頭が転落、1180年の平氏焼き討ちで大破して再建され土山もとりのぞかれた。1567年の兵火で再び大破したが修理され、1690年に仏頭が完成し、今に至っている【写真4】。

【写真4】
大仏

 東大寺にはこのほか創建東大寺の門の唯一の遺構である転害門(てがいもん、奈良時代)【写真5】、法華堂(正堂/奈良時代・礼堂/鎌倉時代)【写真6】、鐘楼(鎌倉時代)、開山堂(鎌倉時代)、本坊経庫(奈良時代)、聖武天皇遺愛の宝物をおさめた正倉院正倉(奈良時代)、二月堂(江戸時代)とあわせて9棟が国宝建造物に指定されている。

【写真5】転害門
転害門
創建東大寺の門の唯一の遺構であるにもかかわらず、ほとんど観光客がいない所

【写真6】法華堂
法華堂

 向かって左の北半分は奈良時代に建てられた正堂(しょうどう)で南半分は鎌倉時代に再建された礼堂(らいどう)。時代が異なる二つの建築が接続して現在の姿となっている。


 国分寺の造営や廬舎那仏・東大寺の造営は、仏教による鎮護国家を願った聖武天皇の夢でありました。大規模な建設工事はおもに地方の豪族の財物や労力よることになりました。見返りに貴族の最下位である外従五位下の位が与えられましたから、言い換えれば売位にほかなりませんでした。このように財政事情を悪化させたばかりか、農民層に負担が重くのしかかったことで、餓死者が後を絶たず、社会情勢を悪化させました。聖武天皇の夢は儚く潰えました。
 次回は、興福寺をみてみましょう。さらに伽藍配置が変化しています。


挿入写真 筆者撮影
参考文献
 栄原永遠男『日本の歴史④ 天平の時代』(集英社、1991年)
 海野聡『日本建築史講義 木造建築がひもとく技術と社会』(学芸出版社、2022年)
 日本建築学会編『日本建築史図集 新訂第三版』(彰国社、2011年)

 太田博太郎・藤井恵介監修『[増補新装カラー版]日本建築様式史』
 (美術出版社、2018年)
 NPO法人世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典〈上〉第2版』
 (NPO法人世界遺産アカデミー、2020年)

 中村元ほか編『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店、2002年)

 山本博文監修『ビジュアル百科 写真と図解でわかる 天皇<125代>の歴史』
 (西東社、2018年)

 文化庁『国指定文化財等データベース』https://kunishitei.bunka.go.jp/
 奈良市ホームページ https://www.city.nara.lg.jp/


執筆者紹介
大宮 誠 氏
 新潟大博士(文学)
 元 三条地域振興局長
 元 新潟経営大学観光経営学部教授
 現 新潟日報カルチャースクール「旅する世界遺産」講師

※当サイトの内容、画像等の無断転載を禁止します。






世界遺産の愉しみ 第9回   2023年2月20日 大宮 誠       

奈良 その1 法隆寺『法隆寺地域の仏教建造物群』
 今回から、4回にわたり古代仏教寺院建築と伽藍配置の変遷についてみていきましょう。まず初めは法隆寺です。法隆寺には47棟の建造物があり、そのうち11棟は8世紀以前に建造された、現存する世界最古の木造建造物です。ここでは西院の伽藍配置と主な建造物をみていきます。

歴史
 法隆寺は奈良盆地から大阪・堺に抜ける大和川沿いの斑鳩の里にあり、聖徳太子ゆかりの寺である。法隆寺の開創は聖徳太子が推古天皇9年(601)に飛鳥から移住を決意してつくった斑鳩宮に端を発する。605年に斑鳩宮に移り、隣接して斑鳩寺を建てた。これが一般的に聖徳太子の建てたといわれる法隆寺を指す。建設の経緯は、法隆寺金堂の薬師如来光背銘文に次のように記載されている。「用明天皇2年(587)、天皇が病気平癒を祈って造寺造仏を発願したが果たさずに崩じたため、遺願を報じて、推古天皇と聖徳太子が造立を進め、推古天皇15年(607)に完成した」。ところが『日本書紀』には、この法隆寺が天智天皇9年(670)に大火にかかったとされている。これらのことから、現存法隆寺伽藍についての再建非再建論が明治時代から展開した。
 昭和14年(1939)、普門院の裏庭に四天王寺式配置をもつ若草伽藍が発見され、それが罹災した創建法隆寺とみられること、また金堂壁画の様式、昭和の解体修理(1942-52年)の際に再発見された五重塔天井板の落書きなどから、現在の金堂、五重塔の創立が天智9年(670)を遡りえないことから、再建論に一応落着している。


伽藍配置
 現在の法隆寺の伽藍配置は、金堂・五重塔・中門・大講堂など飛鳥時代の建築を中心とする西院伽藍【写真1】、夢殿を中心に奈良時代の伝法堂や鎌倉時代の東院伽藍【写真2】の二つに分かれる。
 西院伽藍は、廻廊で囲まれ中門が南側に開いている【写真1】。東側に金堂、西側に五重塔が並び立つ法隆寺式伽藍配置で、廻廊は東側と西側で長さが異なる。これは金堂と五重塔とのバランスで、金堂の桁行が大きいことから東側がやや長くなっている。現在の廻廊は途中で折れ曲がり、東側は鐘楼を、西側は経蔵を取り込みながら大講堂へと接続している。かつて廻廊は大講堂までは延びず、鐘楼、経蔵、大講堂は廻廊の外側に位置していた。

【写真1】西院伽藍  中央:中門 右側:金堂(屋根の一部) 左側:五重塔
西院伽藍
【写真2】東院伽藍 夢殿
東院伽藍 夢殿

主な建造物

中門 国宝
 左右には廻廊が連なり、廻廊内には右(東)に金堂、左(西)に五重塔がそびえる。中門は初重・二重とも、桁行(正面)が4間、梁間(側面)が3間の特殊な平面である。梁間を3間とする形式は、飛鳥寺や大官大寺の中門でも確かめられ、飛鳥時代には例が多い。桁行を4間に分けるものは、ほかの建物(跡)では確認されていない。通常の門は奇数間で中央を通行するが、4間だと門の中央に柱が置かれることになる。ここでは、中央2間を通行口とし両脇に仁王像を置いている。奈良時代の中門は梁間2間のものが多いが、ここは3間となっており、特徴がある。廻廊と中門は接続しており、梁間3間の場合、真ん中をそのまま通ることができるようになっている。【写真3】
 柱は太くて胴張りがあり、軒は雲斗雲肘木(くもとくもひじき)によって構成される組物、一軒でありながら、尾垂木(おだるき)の支えによって深くさしだされるなど、飛鳥建築の特徴とされるものによる構成が力強く、美しい。入母屋造で、本瓦葺の屋根である。
 *桁行(けたゆき)4間:長方形の長辺方向に柱が5本たつ建物の幅。ただし、1間の長さは定まっていない。
 *梁間(はりま)3間:長方形の短辺方向に柱が4本たつ建物の奥行。
 *尾垂木:柱芯を支点として、外側の軒の荷重と、内側の屋根の荷重を天秤のようにして、吊り合わせる役目を持ち、後世における「桔木(はねぎ)」によく似た役目をする部材である。(出処:大阪文化財ナビhttps://osaka-bunkazainavi.org/)

【写真3】中門 中央几帳部分2間が通路 両側に廻廊が接続している
中門 中央几帳部分2間が通路

金堂 国宝
 本尊釈迦三尊像以下を安置する堂で、伽藍の中心となる建物。高さ約160mである。二重基壇上に建ち、建物の規模は、桁行5間(約9m)、梁間4間(約7,5m、)で、本瓦葺の屋根が二重になっており、初重(1階の屋根)の軒下には板葺の裳階(もこし)といわれる庇(ひさし)のようなものが出ている。屋根は入母屋造とよばれる形である【写真4】。主屋の柱は丸柱、裳階の柱は角柱である。寺院建築では丸柱が正式で、角は略式な柱である。
軒先に出る軒を支える雲斗雲肘木は曲線状の独特のものである。また二重の四隅に補強のための柱がたっているが、これは江戸時代にたてられ、昇龍と降龍の装飾が施されている。二重の周囲に卍崩しの高欄をめぐらし、高欄の地覆を三斗と人字形割束(にんじがたわりつか)でうけている【写真5】。中国の雲崗石窟などとの関係がうかがえる。本尊を安置する内部は土間である。

【写真4】金堂
金堂
【写真5】金堂 高欄の卍崩し 高欄の地覆をうける三斗と人字形割束 補強柱(昇龍)
金堂 昇龍

五重塔 国宝
 仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るため、古代インドで造られ始めた仏塔。高さは34.1mである。主屋の柱は丸柱、裳階の柱は角柱で金堂と同じである。方3間6.42m(最上層は二間3.21m)で五重の本瓦葺きの屋根を持つ塔婆である。初重には板葺の裳階が付いている。逓減は下層と上層の平面の大きさの割合で、上にいくにしたがって小さくなる。法隆寺五重塔では最下層と最上層の柱間総長を比べると最上層は最下層の半分となっている。逓減率が大きく、安定感があるといわれる【写真6】。金堂と同様に軒を雲斗雲肘木などが支える【写真7】。
 *方3間:4隅の柱が正方形状に配置され、その一辺が3間ということ。

【写真6】五重塔
五重塔
【写真7】五重塔 軒を支える雲斗雲肘木 高欄の卍崩し
五重塔 軒を支える雲斗雲肘木 高欄の卍崩し

廻廊 国宝
 法隆寺中門の両端を起点とする廻廊は、金堂・五重塔を囲みながら北上ののちいったん東西に屈折し、さらに北転して経蔵・鐘楼を含めつつ大講堂に達している。このうち当初部分は金堂・五重塔背後の屈折点までで、もとはここで東西に連結されて北面を閉ざしていた。
 現状のように拡張されたのは平安時代中期とみられる。ここでの大きな特徴は、横長の金堂とそれより小さな正方形の五重塔とを左右に並列し、かつ堂塔と廻廊との間隔を均等に扱おうという意図から、南辺廻廊を中門から東は11間、西は10間と長短をつけていることである。視覚的な均衡を考えた配慮といえる。梁間は3.7mの単廊で、外側柱筋は出入り口を除いてすべて連子窓で閉ざし、内側は開放である。柱には飛鳥時代特有の胴張りをつけるなどが、金堂・五重塔と同じ様式で、建立年代の近いことを示す。【写真8】

【写真8】廻廊(東)大講堂に接続する部分
廻廊(東)大講堂に接続する部分


 法隆寺は、他の古代の建物と比べて、組み物をはじめ違いが際立ちます。そこで飛鳥様式とか法隆寺様式と呼ばれています。その特徴的なものを一部みてきました。冒頭で述べましたように法隆寺には47棟の建造物があり、ここではごくわずかしか紹介できませんでした。また、近くには法起寺の三重塔があり、国宝で世界遺産の構成資産の一つです。外国人観光客が押し寄せない今のうちに訪ねてみてください。
 次回は、奈良の東大寺をみたいと思います。


挿入写真 筆者撮影
参考文献
 海野聡『日本建築史講義 木造建築がひもとく技術と社会』(学芸出版社、2022年)
 原口秀明『ゼロからはじめる建築の[歴史]入門』(彰国社、2020年)
 日本史広辞典編集委員会編『山川 日本史小辞典(新版)』(山川出版社、2001年)
 日本建築学会編『日本建築史図集 新訂第三版』(彰国社、2011年)

 太田博太郎・藤井恵介監修『[増補新装カラー版]日本建築様式史』
 (美術出版社、2018年)

 西和夫『図解 古建築入門 日本建築はどうつくられているか』(彰国社、1990年)

 NPO法人世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典〈下〉第2版』
 (NPO法人世界遺産アカデミー、2020年)

 中村元ほか編『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店、2002年)
 文化庁『国指定文化財等データベース』https://kunishitei.bunka.go.jp/  ほか


執筆者紹介
大宮 誠 氏
 新潟大博士(文学)
 元 三条地域振興局長
 元 新潟経営大学観光経営学部教授
 現 新潟日報カルチャースクール「旅する世界遺産」講師

※当サイトの内容、画像等の無断転載を禁止します。





世界遺産の愉しみ 第8回   2023年1月20日 大宮 誠       

スペイン その2 「メスキータ」『コルドバの歴史地区』
 今回はスペイン南西部、アンダルシア地方にあるコルドバの「メスキータ」をみてみましょう。「メスキータ」はスペイン語でモスクを意味する一般名詞で、イスラム時代はアルジャマ・モスクと呼ばれていました。13世紀、この地を奪還したキリスト教徒はモスクを教会に転用し、16世紀にはモスクの中央部に教会堂を建設しました。この建物は正式には「コルドバの聖マリア大聖堂」ですが、一般には「メスキータ」と呼ばれています。

資産の歴史
 コルドバは紀元前3世紀頃、イベリア人によって建設されたと考えられている。その後ローマ帝国に支配され、紀元前1世紀にローマ人によって築かれその後918 年にムーア人によって拡張された「ローマ橋」が残されている。5世紀にはゲルマン系の西ゴート王国の支配下に入った。6世紀末、西ゴート国王レカレド1世(586-601)は「第3回トレド公会議」を招集し、アリウス派の放棄と王国のカトリック改宗を宣言している。
 8世紀はじめにイスラム王朝であるウマイヤ朝がイベリア半島に侵入し、西ゴート王国は滅亡し、イベリア半島の多くがウマイヤ朝の支配下に入った。750年にウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされると、ウマイヤ家の生き残りであるアブド・アッラフマーンがイベリア半島まで逃亡し、756年にコルドバを首都に後ウマイヤ朝を建国した。即位後アブド・アッラフマーン1世(在位756-788)はウマイヤ朝時代の建築家や芸術家・科学者を集め、ダマスカスやバグダードに劣らない都市を目指して町を整備した。その集大成として785年に建設を開始したのがメスキータである。町は発展を続け、12世紀には人口50万人の都市に成長したと想定されている。

メスキータ
 コルドバがイスラムの支配になった初めは、それまでのキリスト教の聖堂を破壊せず改築し、モスクとして使用した。しかし、人口が増加したため拡張工事が必要となり、西ゴート時代の「聖ビセンテ教会」があった場所を買い取り、785年にアブド・アッラフマーン1世の命により新たにモスクの建設が始められた。その後、コルドバの発展に伴い4回の拡大・改築が行われ、200年後の987年にようやく完成した。2万5000人もの信者を収容でき、イスラム教発祥の地メッカにあるモスクをも上回る世界最大規模のモスクとなった。
 メスキータはアミナール(モスクの塔)、オレンジのパティオ、礼拝室からなる。周囲の外壁は175×135m、高さ10mで、北西に高さ54mのアミナール(イスラム時代は約40mのミナレット)を備えている【写真1】。

【写真1】アミナール
アミナール

 内部の礼拝室には、完成時18列の石柱が並び、その総数は1012本に及んだ。「円柱の森」と呼ばれ、荘厳で神秘的なイスラム文化の栄華を象徴している。当初の礼拝室を造ったときの石柱の大部分はローマ時代や西ゴート時代のものを使ったようである。当時のモスク建築では、石柱が低すぎるため、天井を高くするためと、石柱と石柱の安定度を増すため、石柱の上に二段になったアーチが乗せられた。このアーチは白い石の部分と赤い煉瓦の部分とが交互に表れ、美しい縞模様なしている【写真2】。

【写真2】 「円柱の森」
円柱の森

 礼拝室の奥へ突き当たった所には、メッカの方向を示すためのキブラ壁や聖なる窪みであるミフラーブ(聖龕)が設けられ、そこだけは他と違ってひときわ豪華に装飾された。ミフラーブ正面の馬蹄形アーチや壁面には精緻なアラベスクが施され、またイスラム教の経典『コーラン』の一節も図案化され刻まれている【写真3】。

【写真3】ミフラーブ
ミフラーブ

 1236年、カスティリャ王国のフェルナンド3世がコルドバを占領した。フェルナンド3世はモスクや西ゴート時代の教会跡を修道院や教会堂に改修し、特にメスキータを大聖堂として整備した。しかしメスキータ、特にメッカの方角を表すキブラ壁やミフラーブ、ミフラーブの前に設けられた王の礼拝室マクスーラとそのクーポラ(天蓋)【写真4】があまりに見事だったためそのまま残された。その後、時代時代にキリスト教の礼拝堂が壁際に築かれたものの、全体の構造は維持された。

【写真4】クーポラ
クーポラ

 当初はイスラム教徒もこの地を追われる事もなく、モスクの内部にキリスト教の礼拝堂が作られ、日曜日にはキリスト教徒が礼拝をし、金曜日にはイスラム教徒が集団礼拝をするというように共存していた。しかし、君主が変わると事情も変わってきた。15世紀後半、カトリック両王と呼ばれたイザベル女王とフェルナンド王の時代になるとユダヤ人は追放され、イスラム教徒は改宗を迫られ、迫害を逃れて多くの人がアフリカ大陸へと逃げ渡った。
 16世紀、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)は大司教の求めに応じてメスキータの改築を容認した。設計を依頼された建築家エルナン・ルイス1世はメスキータを守ることを決意し、全体を壊さず、中央部分をくり抜いてゴシック様式とルネサンス様式の大聖堂をはめ込んだ。
 かつて1,012本の円柱が立ち並んでいたが、大聖堂のために864本に減った。大聖堂は通称コルドバ大聖堂、正式には「コルドバのサンタ・マリア大聖堂」という名称で、内部は祭壇やステンドグラス、ゴシック彫刻で覆われた完全な教会空間となっている【写真5】。

【写真5】大聖堂
大聖堂

 高さ54mの塔はもともとイスラム教の約40mのミナレット(礼拝を呼び掛けるための塔)で、キリスト教時代に鐘と大天使ラファエル像を設置して鐘楼となった【写真1】。オレンジのパティオはモスクのサハン(中庭)だった場所で、98本のオレンジが並んでいたことから名付けられた。イスラム教徒が身を清める泉亭(ホウズ)があったが、現在はサンタ・マリア噴水とシナモン噴水が設置されている。
 後にカルロス1世は、「ありふれた教会を造るために稀有な作品を破壊してしまったのかもしれない」と嘆いたという。


 スペインは、イスラム文化が色濃く残っています。メスキータの内部に入った途端、イスラム紋様やアラブ風の円柱に思わず声を出してしまいます。モスクの中にゴシックやルネサンス様式のキリスト教礼拝堂を備えた世にも不思議な建物メスキータは、最も印象深い建物の一つです。
 次回からは、残り4回日本の寺院をみてみましょう。最初は法隆寺です。


挿入写真 筆者撮影
参考文献
 立石博高編『新版世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』(山川出版社、2000年)
 世界史小辞典編集委員会編『山川 世界史小辞典(改訂新版)』(山川出版社、2004年)
 木村光男監修『ヨーロッパの世界遺産③ スペイン・ポルトガル』(講談社、2004年)
 紅山雪夫『添乗員ヒミツの参考書 魅惑のスペイン』(新潮社、2009年)
 深見奈緒子『世界の美しいモスク』(エクスナレッジ、2016年)
 都市史図集編集委員会編『都市史図集』(彰国社、1999年)

 NPO法人世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典〈下〉第2版』
 (NPO法人世界遺産アカデミー、2020年)


執筆者紹介
大宮 誠 氏
 新潟大博士(文学)
 元 三条地域振興局長
 元 新潟経営大学観光経営学部教授
 現 新潟日報カルチャースクール「旅する世界遺産」講師

※当サイトの内容、画像等の無断転載を禁止します。





世界遺産の愉しみ 第7回   2022年12月20日 大宮 誠       

スペイン その1 サグラダ・ファミリア
 今回はスペイン・バルセロナに現在も建設中のサグラダ・ファミリア(聖家族)贖罪聖堂をみたいと思います。7つの資産で構成されている『アントニ・ガウディの作品群』の一つで、世界遺産として登録されているのは、サグラダ・ファミリア全体ではなく「誕生のファサード」と「地下聖堂」だけです。全体的にゴシック・リバイバル様式に近いトゲトゲしいデザインですが、ガウディらしい曲線や動植物のモチーフを多用しており、モデルニスモ(カタルーニャ風アール・ヌーヴォー)的展開が見られます。

資産の歴史
 ガウディは1852年にバルセロナの南にある町、レウスの銅細工職人の家に生まれた。幼い頃から病弱でリウマチに苦しみ、家にこもりがちで飛び回って遊ぶことができなかったという。その代わり自然を観察して絵を描いたり、立体作品を作っていた。「すべては自然という書物に書かれている」と語り、自然界に見られる曲線・曲面の多用、繊細な光と色の演出、装飾的な建築がガウディの特質である。バルセロナの建築学校に進学し、学費を稼ぐためにさまざまな建築家の下で働きながら、1878年に建築士の資格を得た。26歳の時、パリ万国博覧会に出品した作品がエウゼビ・グエルの目に留まり、以後40年にわたってグエルの支援を受けた。
 贖罪聖堂は、バルセロナの信仰深い一出版人ヴェルダゲールが発案した。第一代の総監督はガウディが助手を勤めていた建築家フランシスコ・ビリャール(1828-1903)で、彼はこの聖堂を当時はやりのネオ・ゴシック様式で設計した。しかしビリャールは建設委員会との意見の不一致から着工後わずか1年で辞任した。
 1883年、第二代総監督に弱冠30歳のガウディが任命された。聖堂はネオ・ゴシック的な概念を完全に打ち破る独創性が自由に発揮されたものとなった。ガウディは役所に提出する簡単な図面を除いてほとんど設計図を描かず、数学的な計算式も使わず、紐と錘を用いて「逆さ吊り模型」(網状の糸に重りを数個取り付け、その網の描く形態を上下反転したものが、垂直加重に対する自然で丈夫な構造形態だというガウディの考え)によって設計を行った。
 計画された聖堂はきわめて巨大なもので、あまりの規模から完成に300年はかかるといわれ、ガウディは晩年、聖堂にこもって作業を進めた。1926年6月7日、ガウディはミサに向かう途中、段差に躓き転倒、そこに通った路面電車に轢かれた。晩年身なりに気をつかわなかったため、浮浪者と間違われて手当てが遅れ、事故の3日後に入院先の病院で亡くなった(満73歳没)。亡くなるまでライフ・ワークとして携わりつづけた。生前に完成したのは東ファサードにあたる「誕生のファサード」、「地下聖堂(クリプト)」、アプス(後陣)の一部にすぎなかった。
 1936~39年のスペイン内戦やそれに続く第2次世界大戦でほとんどの資料が失われたため、現在は職人の聞き取りやわずかなデッサンを元に建設が続けられている。なお、建設開始から長い年月が経っているため、建築と並行して既存部の修復も行われている。

サグラダ・ファミリア贖罪聖堂
 北にアプス(聖堂内で最も神聖な場所)を置いた117×82.5mほどのラテン十字式の平面プランで、南の「栄光のファサード」が正門となる。「栄光」はイエスの復活や昇天といった奇跡を示しており、東ファサードの「誕生」、西ファサードの「受難」とともにイエスの生涯を描いている。完成している「誕生のファサード」と「受難のファサード」の趣はまったく異なる。「誕生のファサード」は曲線を多用し自然のモチーフをふんだんに使った自然賛美・生命賛歌を思わせる繊細で明るい装飾で覆われている。【写真1】【写真2】

【写真1】「誕生のファサード」と4本の塔
「誕生のファサード」と4本の塔

【写真2】入口の柱頭部「イエスの誕生」 その上部「受胎告知」の彫刻
入口の柱頭部「イエスの誕生」

 これに対し、「受難のファサード」は最後の晩餐やヴィア・ドロローサ(十字架を背負ってエルサレムを歩いたヴィア・クルキス/苦難の道行/十字架の道行)、磔刑などが直線的で著しくデフォルメされた現代彫刻で描き出されている。【写真3】

【写真3】「受難のファサード」の彫刻

      上段 磔で死んだキリスト、足元にはヨハネに慰められる聖母マリアとマグダラのマリア
      下段 十字架を背負わされ自ら歩くキリスト

「受難のファサード」の彫刻

 内部は高さ30~60mにもなる巨大な空間で、36基の柱が林のように立ち並んでいる。自然で原始的とさえ感じられるが、ゴシック的なステンドグラスや天井のミニマルで近未来的なデザインも見られ、独創的で神々しい空間が広がっている。【写真4】

【写真4】内部 アプスの方向をみる 写真下の丸いもの 主祭壇の天蓋飾り
柱とその装飾

 全体的にゴシック・リバイバル様式に近いトゲトゲしいデザインだが、ガウディらしい曲線や動植物のモチーフを多用しており、モデルニスモ(カタルーニャ風アール・ヌーヴォー)的展開が見られる。塔は9基が完成しているが、最終的にはイエス、マリア、十二使徒、4福音記者に捧げられた18基が立つ予定で、中央のイエスの塔は高さ172.5mで世界でもっとも高い聖堂になる予定である。【写真5】

【写真5】
天井のフレスコ画

 サグラダ・ファミリアは、コロナ禍で海外観光客の急減で収入が大幅に減ったため建設が遅れ、施工責任者は「2026年完成を見込んでいたが、残念ながら不可能だろう」と指摘しているという。また、教会とは名ばかりの観光スポットのサグラダ・ファミリアに殆どの市民は興味が無いのが実情で、特に教会に隣接する住民にとっては迷惑以外の何物でもないと言う声が大きいという。

 次回はスペイン・コルドバにあるメスキータ(スペイン語でモスクという意味)と呼ばれる、「コルドバのサンタ・マリア大聖堂」をみたいと思います。ここは、モスクの一部を取り壊して大聖堂を造りましたが、モスクの雰囲気が十分残っています。
 余談ですが、ガウディが亡くなった年と同じ年になった私としても、身なりを小奇麗にし、躓かないよう注意して歩くよう、心掛けたいと思っております。


挿入写真 筆者撮影
参考文献
 船本弘毅『知識ゼロからの 教会入門』(幻冬舎、2015年)
 神吉敬三『世界の都市の物語 バルセローナ』(文藝春秋、1992年)
 紅山雪夫『添乗員ヒミツの参考書 魅惑のスペイン』(新潮社、2009年)
 大貫隆外編『岩波 キリスト教辞典』(岩波書店、2002年)

 NPO法人世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典〈下〉第2版』
 (NPO法人世界遺産アカデミー、2020年)


執筆者紹介
大宮 誠 氏
 新潟大博士(文学)
 元 三条地域振興局長
 元 新潟経営大学観光経営学部教授
 現 新潟日報カルチャースクール「旅する世界遺産」講師

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世界遺産の愉しみ 第6回

2022年11月20日 大宮 誠 


ドイツ その2 『ヴィースの巡礼教会』
 今回は、バイエルン州ロマンチック街道沿いのアルプス山麓のある小さな村ヴィースが舞台です。その小高い丘の上に建てられた、18世紀ドイツ・ロココ様式を代表するヴィース巡礼教会をみてみましょう。ロココとは、岩石を意味するフランス語のロカイユから生まれた言葉です。18世紀フランスで宮廷文化(サロン文化)が花開いた時代に栄えた、バロックの延長線上にある華麗な室内装飾が特徴の様式です。

資産の歴史
 1738年、キリスト像が涙を流すという「ヴィースの奇跡」が起きたことを発端に、教会の歴史が始まる。
 伝説によると1738年5月4日、農家のロリー一家はシュタインガーデンの修道院で埃をかぶったままになっていた「鞭打たれるキリスト」の受難像をもらい受けてきたという。この像は修道士たちによって彫られ、すでに祈りを捧げる者もいなくなり放置されていた。一家は寝室にこの木像を置き、日々の祈りを捧げていた。6月14日の夜、夫人のマリアは祈りの際にイエスの顔に水滴がついているのを発見した。翌朝も同じ現象が起こったため修道院長に報告すると、奇跡が証明されるまで沈黙を守るように指導された。
 しかし、涙の奇跡のニュースは瞬く間に広がり、多くの巡礼者が自宅を訪れるようになった。やがてドイツのみならずオーストリアやボヘミア(チェコ西部)、イタリアなどから巡礼者が集まるようになったため、シュタインガーデン修道院長は1740年にロリー家の近くにイエス像を収める小さな礼拝堂を建立した。
 訪れる巡礼者の数が増え続け、小さな礼拝堂では手狭になったため、本格的な教会堂の建設が計画された。1745年、ドイツ南部で多くの修道院建築を手掛けていたドイツ宗教建築の第一人者ドミニクス・ツィンマーマン(1685-1766)の指揮のもと、改造工事が始まった。兄で画家のヨハン・バブティスト・ツィマーマンもフレスコ画を描いた。1754年には「献堂式」が行なわれ、その3年後に内部工事などすべての工事が終了し、兄弟の手で建物と装飾が調和した華麗で色彩豊かな教会が完成した。60歳でこの仕事を請け負ったドミニクスは、残りの生涯を懸けてヴィース教会の建築に心身を砕き、完成後も80歳で亡くなるまでこの教会の近くに住み続けたそうである。

巡礼教会
 正式の名は「ヴィース(牧草地)にある鞭打たれるキリストの巡礼教会」という。外観は白色の壁にエンジの屋根が印象的な巡礼教会で、バイエルン地方の聖堂によく見られる玉ねぎ型をした屋根の塔が特徴である。素朴な佇まいであるが、乳白色にピンクを加えた女性的な色彩の建物は、周りの牧草地によく映えている【写真1】。現在の建物は1985~1991年にかけて修復されたが、18世紀の建築当時そのままの姿が忠実に再現されているものである。

【写真1】
外観

 西から東へナルテクス・身廊・内陣が一列に並ぶ構造で、全長59.49mの規模である。ナルテクスは聖堂正面入り口に設けられた教会と外部を隔てる玄関間で、本来は、聖堂に入ることを許されない未洗礼者ら悔悟者の控の間として使われていたが、中世にはその機能が失われた。ヴィースの巡礼教会では身廊の西に小さな半円形のナルテックスが設けられている。
 楕円形の身廊は全長29.27m・幅24.75m・高さ31.50mでもっとも大きな空間となっている。天井までは高さ約20mである。内部は、ロココそのものであり、陶酔を誘われるような柔らかな色彩に幻をみているような錯覚に陥る【写真2】。

【写真2】 身廊から内陣に続く
身廊から内陣に続く

 柱は、下部はとても質素に造られているが、上になるにつれ豪華になっていき、その変化が面白い。柱頭の上にはキリストが説いたといわれる8つの幸福が描かれている。主頭の形と彩色いずれもしなやかで優美さも特徴的である【写真3】。華やかな形をした窓のまわりから壁面へ、そして楕円形ドームの天井にかけて、一連の彫刻、漆喰細工、壁画が施されている。

【写真3】 柱とその装飾
柱とその装飾

 天井は、主祭壇の天井フレスコ画は、ドミニクスの兄で宮廷画家だったヨハンのキリストの復活や最後の晩餐やキリストが虹の玉座に座る姿などが描かれている【写真4】。内部に入ると奥の祭壇に引き込まれるような錯覚が感じられる。これらは見事な装飾とマッチしたフレスコ画の影響が大きいといわれている。

【写真4】 天井のフレスコ画
天井のフレスコ画

 内陣は、楕円形の身廊を囲む周廊からの光が織りなす複雑な色とロココ様式の荘厳な美しさを持っている。幻想的な宗教空間は、ヨーロッパ随一のロココ内装といわれるほど高い評価を受けている【写真5】。

【写真5】 内陣
内陣

 主祭壇は、中央に伝説のキリスト像を安置した、内陣奥にある荘厳な主祭壇。ここは弟ドミニクスの作品で、十字架にかけられたキリストの血を表す赤い柱と、神の恩寵を表す青い柱に囲まれている【写真6】。「鞭打たれるキリスト像」の上にはプルブレヒトによる「人となり給うたキリスト」があり、主祭壇の最上部には、自ら犠牲になり復活したキリストの象徴である仔羊の彫像がある。

【写真6】 主祭壇の「鞭打たれるキリスト像」
内陣

 ヴィースの巡礼教会は今までみてきたものとは、その規模では全く違い圧倒されることはありませんが、内部に一歩足を踏み入れると、その色彩・装飾に感動します。
 次回は、スペイン・バルセロナの『アントニ・ガウディの作品群』の一つサグラダ・ファミリア贖罪聖堂をみたいと思います。


挿入写真 筆者撮影
参考文献
 大貫隆外編『岩波キリスト教辞典』(岩波出版、2002年)
 紅山雪夫『ドイツものしり紀行』(新潮社、2005年)
 船本弘毅『知識ゼロからの 教会入門』(幻冬舎、2015年)
 羽生修二外『[増補新装カラー版]西洋建築様式史』(美術出版社、2010年)

 NPO法人世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典〈下〉第2版』
 (NPO法人世界遺産アカデミー、2020年)


執筆者紹介
大宮 誠 氏
 新潟大博士(文学)
 元 三条地域振興局長
 元 新潟経営大学観光経営学部教授
 現 新潟日報カルチャースクール「旅する世界遺産」講師

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世界遺産の愉しみ 第5回

2022年10月20日 大宮 誠 


ヴァティカン市国 サン・ピエトロ大聖堂
 今回は世界遺産『ヴァティカン市国』の構成資産の一つであるサン・ピエトロ大聖堂をみたいと思います。ルネサンスからバロック期の芸術家が設計を手がけたローマ・カトリックの総本山で、バロック様式がみられます。バロックとは宝石用語「バローコ(ゆがんだ真珠)」に由来するとされます。それまでの「調和の美」を基本として発展したルネサンス様式から、「変化と躍動感」に満ちた新たな建築様式・バロック様式へと変わります。

教皇領とヴァティカン市国の成立
 教皇領は、5~7世紀に始まり1870年まで続いた教皇が世俗的支配権をもって統治した領地である。教会にはローマをはじめとしてイタリア内外に皇帝や貴族の寄進・遺贈による領地が存在したが、756年フランク王ピピンの寄進の頃からイタリア中部・南部の地域を指すようになった。教皇領の拡大は、教皇の精神的機能が世俗化するもととなり諸貴族との覇権争いの場となった。特にその典型は1309年に起こった「教皇のアヴィニョン捕囚」と呼ばれる教皇庁がアヴィニョンに移った事件であった。教皇庁がローマにもどったのは、「教会大分裂(大シスマ)」を経た1420年で、約110年ぶりであった。荒廃していたローマは、1453年に教皇ニコラウス5世(在位1447-55)により、都市を再生し、近代都市へと改造する大事業が開始された。ローマにもどっていた教皇庁はカリクストゥス3世(在位1455-58)の時代にラテラーノ宮殿からサン・ピエトロ大聖堂のあるヴァティカンに移された。以後この一画を優越した聖域とするローマの都市改造が進められた。
 中世以来イタリア中央部の広い面積を占めていた教皇領は、イタリア再統一の過程で、1860年にサルデーニャ王国に併合されてしまった。併合を認めない教皇と新しく生まれたイタリア王国との間で対立が続いていたが、その解決を図ったのがムッソリーニであった。1929年にラテラーノ条約が結ばれ、両者の法的地位や境界線が定められた。教皇を首長とし、面積44haの世界最小の独立国であるヴァチィカン市国が、この時正式に発足した。

サン・ピエトロ大聖堂
 サン・ピエトロ大聖堂が建つ地域は、洪水も多く人の住む場所ではなく、ローマ時代にはネクロポリス(死者の町)として墓地が広がっていた。1世紀、ローマ皇帝カリグラ(37-41)がキルクス(多目的競技場)を建設し、皇帝ネロ(54-68)によってさらに整備された。64年にネロによるキリスト教徒大弾圧によって、イエスの十二使徒のひとりであるペトロ(イタリア語でピエトロ)は捕らえられ、このキクルスで逆さ磔の刑に処され、すぐ北側の墓地に葬られたという。皇帝コンスタンティヌス1世(306-337)はミラノ勅令でキリスト教を公認し、349年にペトロとされる墓の上にバシリカ式のマルティリウム(記念礼拝堂)を建設した。これが旧サン・ピエトロ大聖堂である。
 現サン・ピエトロ大聖堂は、16世紀初頭、ユリウス2世(1503-13)がブラマンテ (1444-1514)を登用し、中央集中式プラン(1506年)による本格的な立て替えを命じたことに始まる。大聖堂の建築は、その後教皇も変わり、建築主任もたびたび変わって、基本設計さえ何度も変わった。1539年のサンガッロ案では、中央部は細分化され込み入った形になり、典礼に適するよう長堂が付加された。しかし1546年、すでに72歳になっていたミケランジェロ(1475-1564)は、教皇パウルス3世(1534-49)からこの仕事を依頼された。最初は固辞していたが、教皇の熱意に負け引き受けた。ミケランジェロはサンガッロの装飾過多な曲折の多い設計を白紙に戻し、ブラマンテの原案を基にして、さらに大胆な構想による巨大なドームを上げることに決めた。ドームを中心とした極めて統合性の強い、すっきりとした建築空間を創出しようとし、構想実現のためサンガッロがすでに造り終わっていた部分まで取り壊している。
 1606年に旧大聖堂の解体工事がスタートした。同時にバロック建築の先駆者であるカルロ・マデルノ(1556-1629)が主任建築家に命じられ、ミケランジェロのプランの見直しを行った。ミケランジェロはギリシャ十字形の平面プランを計画していたが、マデルノはギリシャ十字部分をアプス(後陣)とし、東側に身廊やナルテックス(拝廊)を取り付けてラテン十字形とした。通常、ラテン十字形の教会堂はアプスに当たる頭の部分を東、人々を迎え入れる身廊を西に置くが、ローマからの巡礼者を迎える必要から180度逆にデザインされた。大聖堂の献堂式は1626年で、着工から120年かかっているが、ヨーロッパの大聖堂としては割に短期間で完成したほうである。【写真1】【写真2】【写真3】

【写真1】大聖堂正面
サン・ピエトロ大聖堂
中央:ミケランジェロのドーム 右側の建物:宮殿
手前オベリスク:37年に皇帝カリグラがエジプトから運ばせたもの。1586年にここに移された。

【写真2】堂内 金色に輝く中央の祭壇と捻じれた柱を持つベルニーニの大天蓋
金色に輝く中央の祭壇と捻じれた柱を持つベルニーニの大天蓋
【写真3】ミケランジェロのドーム 天井のモザイク画
(天使に囲まれた神が描かれている)
ミケランジェロのドーム 天井のモザイク画(天使に囲まれた神が描かれている)

 大聖堂の顔となる東ファサード(正面)は、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニがバロック様式で再設計し1624年に完成した。【写真4】ベルニーニはまたサン・ピエトロ広場の設計を担当し、聖母が両手を開いて人々を招き入れるような楕円形のコロネード(水平の梁で連結された列柱廊)を建設し1667年に完成している。【写真5】

【写真4】ファサード 上部には洗礼者ヨハネとペテロを除く11体の聖人像(高さ6m)
本堂と巨大なドーム

【写真5】楕円形広場を囲むコロネード(正面に向かって左部分)
柱上には140体の聖人像
本堂と巨大なドーム

 サン・ピエトロ大聖堂はその規模があまりに巨大であったことから莫大な予算が必要で、メディチ家出身のレオ11世(1513-21)は1517年ドイツで贖宥符を販売して賄おうとし、これを発端に教会不信が爆発した。ヨーロッパ各地で宗教改革が繰り広げられる中サン・ピエトロ大聖堂が建設されたのである。

 次回はドイツ・バイエルン州の小さな村ヴィースにあるロココ様式を代表する『ヴィースの巡礼教会』をみたいと思います。


挿入写真 筆者撮影
参考文献
 松本宣郎編『宗教の世界史8 キリスト教の歴史1』(山川出版社、2017年)
 講談社編『世界遺産なるほど地図帳 新訂版』(講談社、2012年)
 船本弘毅『知識ゼロからの 教会入門』(幻冬舎、2015年)
 大貫隆ほか編『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2002年)
 紅山雪夫『イタリアものしり紀行』(新潮社、2007年)
 都市史図集編集委員会編『都市史図集』(彰国社、1999年)
 日本建築学会編『西洋建築史図集 三訂第2版』(彰国社、1983年)
 原口秀昭『ゼロからはじめる建築の[歴史]入門』(彰国社、2020年)

 NPO法人世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典〈下〉第2版』
 (NPO法人世界遺産アカデミー、2020年)


執筆者紹介
大宮 誠 氏
 新潟大博士(文学)
 元 三条地域振興局長
 元 新潟経営大学観光経営学部教授
 現 新潟日報カルチャースクール「旅する世界遺産」講師

※当サイトの内容、画像等の無断転載を禁止します。






世界遺産の愉しみ 第4回

2022年9月20日 大宮 誠 


イタリア その3 『フィレンツェの歴史地区』
 前回紹介した「ゴシック様式」のケルン大聖堂は垂直性を強調し、誇大な表現が見られました。今回は、ローマ建築の造形を理想とし、水平性を強調し、静的な比例、均衡・調和を重んじる新たな建築様式「ルネサンス様式」であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を紹介します。

フィレンツェの歴史
 イタリア中部に位置するトスカーナ地方のアルノ河畔に広がるフィレンツェは。14世紀末から17世紀にかけてルネサンスの中心となった商業都市である。その起源はローマ共和制末期、BC59年にカエサルが建設した植民都市フロンレンティア(花の女神フローラの町という意)に遡るとされる。町はカストゥルム(軍営地)に始まり、帝政期を通して拡大発展した。西ローマ帝国崩壊後は、6世紀にはビザンツ帝国、9~11世紀はカロリング王朝に支配された。12世紀に自治都市(コムーネ)を宣言し、毛織物業や金融業で栄え、14世紀初頭には人口約13万人を擁する大都市に成長した。そのなかで台頭したメディチ家は、14世紀終わりに、メディチ銀行を拡大し、金融業で成功して莫大な財を蓄えた。15世紀半ばにはコジモ・デ・メディチが、財力と政治的手腕をもって市政の支配権を握った。以後300年にわたってメディチ家はフィレンツェを支配した。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(花の聖母マリア大聖堂)
 カソリック教会は誰か特定の聖人あるいは聖三位一体といったキリスト教の理念に捧げられることになっている。イタリアには聖母マリアに捧げられた教会が約3000もあって、紛らわしいので、それぞれ何か修飾辞を付けて区別をはかる必要があった。フィレンツェでは13世紀末に既存の大聖堂を取り壊し、新たな大聖堂が造営され、聖母マリアに捧げられた時、町の名前にちなみ「花の」という修飾辞が付けられた。
 この大聖堂は、ピサの大聖堂と同様に、本堂、鐘楼、洗礼堂という三つの建物に分かれている。

洗礼堂(サン・ジョバンニ洗礼堂)
 三つの建物のうち最も古く、11世紀に、それまでのサン・ジョバンニ教会がロマネスク式の八角堂に改築されたものである。この地は、ローマ人が先住民族のエトルリア人を征服した勝利の記念に、軍神マルスの神殿を建てたといわれてきた。その跡地に洗礼者ヨハネに捧げられた教会(サン・ジョバンニ教会)が建てられた。中世のフィレンツェ市民は、ここに伝説的な都市起源の中心があったということ信じていた。サン・ジョバンニ教会はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂が完成すると、洗礼堂として使用された。
 白大理石とさまざまな色美しい大理石の組み合わせで構築されており、幾何学的な比例の均衡、その巨大さは、その後建設された本堂と鐘楼にも受け継がれている。【写真1】

 【写真1】サン・ジョバンニ洗礼堂 右側建物は本堂
サン・ジョバンニ洗礼堂

本堂
 建設はアルノルフォ・ディ・カンビオ(1245頃 - 1302または1310頃)の設計と監督により1296年に始まった。工事はゆっくりと進み、1334年にはジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃-1337)が監督に就任し建設を進めた。1348年フィレンツェは黒死病(ペスト)の流行に見舞われている。ようやく15世紀はじめにはドームとファサード(正面)以外はほぼできあがった。しかし、空前の規模になったドームの架け方を示せる者はなく、1418年コンクールが行われ、彫刻から建築に転じたフィリッポ・ブルネレスキ(1377 - 1446)が当選した。その案は二重構造のドームで互いを押し合う画期的な設計で、木枠を使わずに煉瓦だけを積み上げて製作され1436年に完成した。地上55mの高さから、114.5mの天空までそびえ立つ推定重量2万5000tの巨大なドームは1434年に、ドーム頭頂部に載せるランターン(明り取り)は1461年に完成した【写真2】。しかしファサードは「流行おくれ」になったカンビオの当初プランが廃棄処分となり、新しいデザインのコンクールが繰り返された。現在のようなファサードが完成したのは1887年である【写真3】。着工から完成まで実に590年もかかっている。
 本堂は奥行きが153m、幅38m、高さ114.5mあり、白大理石に緑大理石と赤大理石を配した造りは、美しく華やいだものになっている。15世紀フィレンツェの富強と意欲、新しい設計理念を表している。

【写真2】本堂と巨大なドーム
本堂と巨大なドーム
 

【写真3】ファサード(正面)
ファサード(正面)
 

鐘楼(ジョットの鐘楼)
 1334年、本堂の監督に就任したジョットは、本堂の建設を進めるとともに、鐘楼を設計し工事に着手した。ジョットは1337年に死去してしまい、その後は弟子のアンドレア・ピサーノやフランチェスコ・タレンティが建築を引き継ぎ、1387年に完成した。ただ当初計画されていた尖塔は造られなかった。
 鐘楼の高さは82mで、本堂と同様に白大理石、緑大理石、赤大理石が使用され、最上階には「アポストリカの鐘」が吊り下げられている【写真4】。

【写真4】鐘楼
鐘楼


 次回は引き続きイタリアで、バロック様式のサン・ピエトロ大聖堂をみてみましょう。


挿入写真 筆者撮影
参考文献
 原口秀昭『ゼロからはじめる建築の[歴史]入門』(彰国社、2020年)
 船本弘毅『知識ゼロからの 教会入門』(幻冬舎、2015年)
 若桑みどり『世界の都市の物語13 フィレンツェ』(文藝春秋、1994年)
 都市史図集編集委員会編『都市史図集』(彰国社、1999年)
 日本建築学会編『西洋建築史図集 三訂第2版』(彰国社、1983年)
 羽生修二外『[増補新装カラー版]西洋建築様式史』(美術出版社、2010年)
 NPO法人世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典〈下〉第2版』(NPO法人世界遺産アカデミー、2020年)


執筆者紹介
大宮 誠 氏
 新潟大博士(文学)
 元 三条地域振興局長
 元 新潟経営大学観光経営学部教授
 現 新潟日報カルチャースクール「旅する世界遺産」講師

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世界遺産の愉しみ 第3回

2022年8月20日 大宮 誠 


ドイツ その1 『ケルンの大聖堂』
 イタリア旅行で最初に訪ねたのが、ゴシック様式のミラノ大聖堂でした。その圧倒的な大きさ、尖塔の美しさに驚きましたが、残念ながら世界遺産ではありません。そこで今回は、ゴシック建築の例を、いくつもの時代を超えて完成されたドイツ『ケルンの大聖堂』でみてみたいと思います。

ケルンの歴史
 ケルンはライン河畔に形成されたローマ人の植民都市を起源とし、その名は植民地を意味するラテン語の「コロニア」に由来し、ドイツ最古の都市の一つである。ローマからキリスト教も早くから伝播した。4世紀に司教座がおかれ、8世紀には大司教座が置かれることになった。ケルンの大司教は俗人の伯(グラーフ)と同じように、10世紀頃から国王の委任を受けて地方の行政、徴税、裁判、兵馬の権を握るようになった。国王(神聖ローマ皇帝)の中央集権が弱まるにつれて、俗人の伯と同じように、ほとんど独立国に近い諸侯となった。ケルンの大司教はキリスト教の高位聖職者であると同時に、ケルンの都市領主であり、この地方全体の地方領主であり、選帝侯でもあるという四つの性格を合わせ持つことになった。
 ヨーロッパ中央を南北に貫くライン河の水上交通と、東西を結ぶ陸上交通の要衝にあるケルンでは、商業や手工業が非常に盛んになり発展した。市民が大きな実力を持つようになると、都市領主としての大司教との対立が激しくなった。抗争は次第にエスカレートし、ついには熱い戦争となり、1288年のヴォリンゲンの戦いで市民側が決定的な勝利をおさめた。
 都市領主としての大司教はケルンから追い出されるに至ったが、大司教座まで移したわけではないから、キリスト教関係の重要な行事がある時には大司教は、ボンやブリュールからケルンに出向くか、あるいは代理を派遣しその機能を維持した。

ゴシック様式
 12世紀半ばからパリを中心に形成された新しい建築様式であるゴシックは、天上の神に少しでも近づきたいという、キリスト教徒の思いを具現化したものである。最大の特徴は、天空を目指してそそり立つ尖塔、天井も高く、視線が上へ上へと向けられる。その高さを支えるために、二つの新しい技術が使われている。交差ヴォールト天井の稜線を補強する「リブ・ヴォールト」と、建物全体を外から支える「フライング・バットレス」である。フライング・バットレスの採用により、内部の露出部分が大きくなり、大きな窓を設けて多量の採光が可能となった。

ケルン大聖堂 (建設1248-1560年および1842-80年)
 ライン河の川面から15mほどの高さの土手に建つケルン大聖堂は、ドイツを代表するゴシック様式の一つである。【写真1】

 【写真1】ケルン大聖堂遠景
ケルン大聖堂遠景
中央ケルン大聖堂、大聖堂右手ケルン中央駅 手前ライン河

 現存する大聖堂は3代目のものである。初代の大聖堂が作られたのは4世紀で、最も古い聖堂として知られ、正方形の建物であった。その後、建て替えがなされ、木造建築の大聖堂が818年に完成したが、1248年4月30日の火災で焼失した。大司教の命によって同年に現聖堂の建設が始まった。
 北フランスのゴシック様式、アミアン大聖堂に倣った大聖堂である。1248年に内陣から起工し、1320年に献堂式が行われた。次いで交差廊と外陣に着手したが、工事は遅く、1560年、内陣が完成しただけで工事は中断されてしまう。宗教改革による資金難などのためであった。1842年にプロイセン政府の援助をうけ、工事を再開し、1880年に完成した。300年近く放置されたままであったが、バロック様式が流行した時代を通り過ごした結果、最初の設計のまま純粋なゴシック建築物が現れたのであった。
 大聖堂の規模は、奥行きが144m、幅86mである。西側正面左右の尖塔の高さは、157mで、完成当時はエジプトのピラミッドを抜き世界最高の高さを誇っていた。単に高いだけでなく、扉や窓、彫刻類など細部まで精緻な装飾が施されている。しかも金属を使わず、石を積み上げることによってつくられている。【写真2】
 大聖堂の側面に回ると、建物全体を外から支える「フライング・バットレス」をみることができる。【写真3】

【写真2】西側正面
西側正面
尖塔の高さは157m

【写真3】大聖堂南側
大聖堂南側
矢印 フライング・バットレス

 内部は五廊式(身廊の両側にそれぞれ側廊が2本ずつある形式)の平面で、身廊部分の天井の高さは40mを超え【写真4】、ステンドグラスから光が差し込み、堂内を照らしている。バイエルン王ルードヴィッヒ1世(在位1825-48年)が奉納した5枚連作のステンドグラスで、「バイエルン窓」と呼ばれている【写真5】。

【写真4】聖堂内部
聖堂内部
交差ヴォールト天井の稜線を補強する「リブ・ヴォールト」がみえる

【写真5】ステンドグラス「バイエルンの窓」
ステンドグラス「バイエルンの窓」

 圧倒的な迫力で迫ってくるケルンの大聖堂は、時代を超えて生み出された荘厳なゴシック聖堂の代表例である。


 次回はイタリアに戻り、ルネサンス様式のフィレンツェ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂をみてみましょう。


挿入写真 筆者撮影
参考文献
 船本弘毅『知識ゼロからの 教会入門』(幻冬舎、2015年)
 池内紀編『世界の歴史と文化 ドイツ』(新潮社、1992年)
 世界史小辞典編集委員会編『山川 世界史小辞典(改訂新版)』(山川出版社、2004年)
 都市史図集編集委員会編『都市史図集』(彰国社、1999年)
 日本建築学会編『西洋建築史図集 三訂第2版』(彰国社、1983年)
 羽生修二外『[増補新装カラー版]西洋建築様式史』(美術出版社、2010年)
 NPO法人世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典〈下〉第2版』(NPO法人世界遺産アカデミー、2020年)


執筆者紹介
大宮 誠 氏
 新潟大博士(文学)
 元 三条地域振興局長
 元 新潟経営大学観光経営学部教授
 現 新潟日報カルチャースクール「旅する世界遺産」講師

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世界遺産の愉しみ 第2回

2022年7月19日 大宮 誠 


イタリア その2 『ピサのドゥオーモ広場』

 今回は、鐘楼が「斜塔」として有名な、イタリア中部トスカーナ地方にあるピサを取り上げます。キリスト教・教会堂の建築様式は、時代や地域によっていくつかのタイプに分類されます。最初期の建築様式は、「初期キリスト教様式」と呼ばれます。ローマ帝国の建築技術を基に造り出されたもので、列柱で区切られた長い身廊が特徴の「バシリカ式」と、中央にドーム形の屋根を載せた「集中式」があります。
 ローマ帝国が東西に分裂(395年)、東ローマ(ビザンティン)帝国ではローマ建築を継承する「ビザンティン様式」が発展しました。その一例が前回見たヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂でした。一方、西方では中世になるとローマ建築の流れから逸脱するものが現れます。「ロマネスク(ローマ風)様式」と「ゴシック様式」です。今回はイタリア・ロマネスクの代表といわれるピサの大聖堂・鐘楼・洗礼堂をみてみましょう。

1 ピサの歴史

 ピサはアルノ川の河口から10kmほど遡ったところに位置する。紀元前2世紀にはローマに服属し、ローマ帝政末期(5世紀)まで重要な海軍基地として機能し、商港としても栄えた。ローマ帝国崩壊後は、ランゴバルド、フランクに支配されたが、11世紀に自治都市となり、ジェノヴァやヴェネツィアと肩を並べるイタリア最強の海上勢力に発展した。11世紀後半には、イスラム教徒に大勝利を収め、多数の船を捕獲し、莫大な商品や金銀財宝を戦利品として得ている。第1次十字軍(1096-98)に大量の艦船をもって参加し、東方に多くの植民都市をもち、交易で莫大な利益をあげた。12世紀に最も繁栄するが、1284年ジェノヴァに敗れて弱体化し、その後、ミラノ、フィレンツェにあいついで服属した。16世紀以降はトスカーナ大公国となり、ガリレオ(1564-1642)を輩出するなど学術の町として繁栄した。港のほうは、土砂の堆積が進み、また船舶の大型化により機能を失っていった。

2 ドゥオーモ広場:正式名称 ピアッツァ・デ・ミラコリ(「奇跡の広場」)の建造物

 イスラム教徒に対する大勝利(「パレルモ沖海戦」)を神に感謝し、ピサの勢威を内外に誇示するために、戦利品を売りさばいて得た膨大の利益の一部を投入して建設したのが、現在の大聖堂等である。それまでの大聖堂は旧市街のまんなかにあって、規模も小さく敷地も狭かったため、拡張の余地はなかった。このため、壮大な大聖堂を新築するため、城壁の外側にあった広い原野に敷地を定め、そこだけ城壁を拡張し市内にとりこむことにしたのだ。
 広場には、大聖堂、鐘楼(斜塔)、洗礼堂などが配置され、歴史的建造物の複合体をなしている。

大聖堂
 建設は大聖堂から始まった。1063年に起工し、1118年に献堂されたが、1261~73年に外陣を3ベイ延長して完成した。大小3つのバシリカを結合したようなプランと白・赤の大理石で外装し、西正面では上部の壁面に円柱を並べ立てた小アーケードを4層に重ねている。外観は、ビザンティンのモザイク、ロンバルディアの小アーケード、古代ローマの列柱など各種の建築要素を融合させて、イタリアらしい風格と明るさを創り出している【写真1】。堂内は奥行59m、幅32m、袖廊部では幅72mに達し、極めて広々としている。合計68本の石柱が林立して、身廊の左右にそれぞれ第1側廊、第2側廊を持つ5廊式である。石柱のほとんどすべては古代遺跡から運ばれてきたもの。
 *ベイ:4本の柱に囲まれたエリア

【写真1】大聖堂外観 西側正面入口
大聖堂外観
注:入口上の半円形のところには、モザイク画が施されている。

洗礼堂
 大聖堂の次に、洗礼堂が1153年に起工した。直径35mの円堂で、ロマネスク式であるが、ドームの部分は14世紀に完成し、ゴシック様式になっている【写真2】。堂内は残響が豊かなことで知られ、中央には1246年に制作された、原初の形態である「全身を水の浸す」洗礼を行う、八角形の洗礼盤が置かれている。

【写真2】洗礼堂 外観
大聖堂外観

鐘楼
 鐘楼(「斜塔」)は1172年に建設が始まった。8層造りで、最上層だけは直径がやや小さく鐘が納められている。続く6つの層は大聖堂のファサードと同じデザインの優美な柱廊で囲まれている。塔を支えているのはこの柱廊ではなく、内部の重厚な壁体である。
 ピサはアルノ川が運んできた土砂の上にあるため地盤が悪く、この塔は下から10mつまり2層目にかかるあたりまで造った時に、すでに傾き始めている。全高約56mであるが、屋上の中心点は本来あるべき位置より約4.5m横にズレている(2008年に監視担当の地質学者が「あと200年は倒壊しない」という見解を出しているという)。ガリレオが物体落下の実験を繰り返したのはここであった。

【写真3】鐘楼 外観
大聖堂外観

 今回は、小さな窓と石造りの厚い壁で重厚といわれるロマネスク様式をみましたが、次回はこれらを克服(?)したゴシック様式の代表ドイツ『ケルンの大聖堂』をみてみましょう。


挿入写真 筆者撮影
参考文献
 船本弘毅『知識ゼロからの 教会入門』(幻冬舎、2015年)
 世界史小辞典編集委員会編『山川 世界史小辞典(改訂新版)』(山川出版社、2004年)
 都市史図集編集委員会編『都市史図集』(彰国社、1999年)
 日本建築学会編『西洋建築史図集 三訂第2版』(彰国社、1983年)
 NPO法人世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典〈下〉第2版』(NPO法人世界遺産アカデミー、2020年)
 紅山雪夫『イタリアものしり紀行』(新潮社、2007年)


執筆者紹介
大宮 誠 氏
 新潟大博士(文学)
 元 三条地域振興局長
 元 新潟経営大学観光経営学部教授
 現 新潟日報カルチャースクール講師


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世界遺産の愉しみ 第1回

2022年6月15日 大宮 誠 


イタリア その1 『ヴェネツィアとその潟』

 このたび、県友会HPに『世界遺産』について連載させていただくことになり感謝しております。1年間12回の予定で書きたいと思いますので、よろしくお付き合いください。
 『世界遺産』に取り組んだきっかけは、2015年春、新潟経営大学観光経営学部で「世界遺産論」を担当するためでした。翌16年8月に「世界遺産検定マイスター」の認定をうけスタートライン立てたという安堵感を得ることができました。こうなると図々しいもので、伝手を頼りに新潟日報カルチャースクールに売り込み、翌17年4月から講座を開設していただき、現在も継続中です。大学やカルチャースクールで取り組むなか、特別な存在である『世界遺産』のもつ歴史的背景、建築的な面白さ、愉しさを実感しています。それらの一端を紹介したいと思います。
 はじめに、イタリアのいくつかの『世界遺産』を取り上げます。イタリアの大聖堂が都市によって違った建築様式で建造されており、その多様性に鮮烈な印象を受けたからです。


1『ヴェネツィアとその潟』

 ヴェネツィアは、118の島、176の運河、400以上の橋からなる、イタリア北東部のアドリア海の海上に築かれた都市である。この地には、イタリア本土から注ぐ中小河川が土砂を運んで浅瀬を作る一方、アドリア海の波の力で自然の防波堤のような帯状の島ができ、その内側にラグーナ(潟)が生まれた。ウェネティ(ヴェネト)人は、6世紀頃、異民族の侵入から身を守るため、安全なラグーンの島々に逃げ込み定住し始めた。7世紀に入ると本格的な建物が建てられるようになり、漁や交易による経済体系が確立していった。8世紀には形式的にビザンツ帝国に従属しつつも、ヴェネツィア共和国として実質的な独立国となった。9世紀から300年の間、東西貿易の一大拠点として発展したが、15世紀になるとオスマン帝国が強大となりヴェネツィアの海上交易にもかげりが出始めた。1707年にはナポレオン1世の侵略を受け約1000年続いた自治都市としての独立を失った。
 ヴェネツィアには数多くの歴史的建造物があるが、ここではサン・マルコ大聖堂をとりあげる。ナポレオンが「世界でもっとも美しい広場」と称えたサン・マルコ広場にはいると、東側正面のサン・マルコ大聖堂が人びとの目を引きつける。

サン・マルコ広場
【サン・マルコ広場】
正面 サン・マルコ大聖堂  右側 鐘楼約97m 16世紀建造 20世紀倒壊・再建

 ファサード(建物の正面)は極めて華麗かつ複雑で、その上には5つのドームがみえる。上下2層のアーチのティンパヌム(半円形の壁面)には金色のモザイクが施され、上段中央のティンパヌムの青色とのコントラストがさらに絢爛豪華な感じを与えている。

正面ファサード
【正面ファサード】

 中央の扉口アーチの上にのる4頭の馬のブロンズ像(腐食が進んだため現在はレプリカ)は、1204年の第四回十字軍がビザンツ帝国首都コンスタンティノープルを征服した際、競馬場に飾られていたものを、戦利品として持ち帰ったものである。18世紀の一時期にはナポレオンによってパリに移されていた。

4頭の馬のブロンズ像
【4頭の馬のブロンズ像】

 サン・マルコ大聖堂建造は、828年にアレクサンドリアから2人のヴェネツィア商人によって運ばれてきた福音書記官聖マルコの遺骸をきっかけとしている。貴い遺骸を安置するため礼拝堂の建設が始まり832年に完成した。この礼拝堂は976年民衆のドージェ(最高執政官)の館が襲撃された際、焼失した。直ぐに再建されたが、3代目となる現在の大聖堂は、ヴェネツィアの勢威に相応しいものとするため、拝堂の基礎と壁体の一部を再利用して改築された。ユスティニアヌス帝(在位527-565)がコンスタンティノープルに建てさせた聖使徒教会堂を原形として、ギリシャの建築家が設計したといわれている。基本プランは、ギリシャ十字形をとり、身廊と袖廊(しゅうろう)の長さが同じで、その交差部に大ドームをあげ、身廊と袖廊のそれぞれ両端に1つずつ、計4つのドームをあげてあり、ビザンティン建築の代表例である。構造体を短期間に建造して、1094年に献堂式を行ったが、仕上の工事は長びき、壁面のモザイクや、ファサードの正面を飾っている小尖塔群が完成したのは約400年後であった。この間、ロマネスク、ゴシック、ルネサンスなどの建築様式の影響を受けている。
 サン・マルコ大聖堂は、このような歴史的背景の中から生まれたものであり、他のイタリアの都市の教会堂の中では特異な存在であり、その雰囲気が大いに異なるものである。
 *ギリシャ十字:横木と軸木が同じ長さ。中央で交差。(例赤十字、スイス国旗)
 *身廊:聖堂内部の、中央の細長い広間の部分。入り口から祭壇(内陣)までの間。
 次回は、『ピサのドゥオーモ広場』からロマネスク様式の建築をみたいと思います。


挿入写真 筆者撮影
参考文献
 日本建築学会編『西洋建築史図集 三訂第2版』(彰国社、1983年)
 光井渉・太記祐一『カラー版 建築と都市の歴史』(井上書院、2015年)
 NPO法人世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典〈下〉第2版』(NPO法人世界遺産アカデミー、2020年)
 紅山雪夫『イタリアものしり紀行』(新潮社、2007年)


執筆者紹介
大宮 誠 氏
 新潟大博士(文学)
 元 三条地域振興局長
 元 新潟経営大学観光経営学部教授
 現 新潟日報カルチャースクール講師


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