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「良寛のこころ」第11回     2024.04.20 本間 明


【良寛の略伝11 貞心尼との交流】
 貞心尼は寛政10年(1798)長岡藩士の娘奧村マスとして生まれました。文学好きな少女だったようです。16歳の時、小出の医師関長温に嫁ぎましたが、子供ができなかったこともあってか、24歳の時に離婚しました。
 そして、柏崎の閻王寺(えんのうじ)で、剃髪し、心竜尼(しんりょうに)・眠竜尼(みんりょうに)の弟子となり、尼としての修行を始めました。
 托鉢の折々に、和歌や書にたけた徳の高い僧侶という良寛の噂を聞いたのでしょうか、是非ともお会いして、仏道のことや和歌のことを学びたいと思うようになったのでしょう。 その機会を得るためにでしょうか、文政10年(1827)貞心尼30歳の年の春、70歳の良寛のいる島崎に近い長岡の福島(ふくじま)の閻魔堂に移り住みました。
 その年の4月15日頃、良寛がいつも子供たちと手毬をついているということを聞いた貞心尼は、手まりを持って島崎の木村家庵室の良寛を訪ねました。
 しかしながら、良寛は寺泊の照明寺密蔵院に出かけており、不在だったのです。そこで貞心尼は次の和歌を木村家に託して良寛に渡してもらうことにしたのです。
 これぞこの 仏の道に 遊びつつ つくや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ (貞心尼)
 六月に貞心尼からの手まりと和歌を受け取った良寛は貞心尼に次の歌を返しました。
 つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみやいむなや) 九の十(ここのとを) 十とおさめて またはじまるを (良寛)
 この歌の「つきてみよ」には手まりをついてみなさいという意味と、私について(弟子になって)みなさいという意味が込められているようです。
 それから秋になって、貞心尼は初めて良寛に逢うことができました。その時以降、良寛が遷化するまで、二人は数々の歌を唱和し、清らかな心の交流を続けました。

隆泉寺の「托鉢良寛像」(作:滝沢美一)
隆泉寺の「托鉢良寛像」(作:滝沢美一)

【良寛の思想と生き方11 利行・同事】
 良寛の4つの菩薩行のひとつが利行(りぎょう)と同事(どうじ)です。
 相手をいたわり支えることが「利行」です。良寛は托鉢で回った家で、疲れたり体調の悪い農民がいれば按摩や灸をしたり、具合の悪い人には看病したりしました。また、亡くなった親の命日だと聞けば、読経もしました。
 子供たちと一緒に遊んだのは、農作業で忙しい親に代わって、子供たちの面倒をみていた利行だったのです。
 相手と同じ目線に立つ、同じ境遇に身をおき、相手に安らぎを与えることが「同事」です。
 良寛が子供たちと一緒に遊んだことも同事行でした。遊女とオハジキをして遊んだのも、辛い境遇にある遊女たちを慰めて救うための同事行でした。
 良寛は貧しい農夫とよく一緒に酒を酌み交わしました。そのことを詠んだ漢詩もいくつかあります。これも同事行だったのです。


【良寛のほっこり逸話11】
 あるとき、与板の和泉屋山田家に、良寛と貞心尼がやってきて、楽しいひとときを過ごしました。およしさんが、色の黒い良寛に、「からす」というあだ名をつけたので、良寛は次の歌を詠みました。
いづこへもたちてを行かむ明日よりはからすてふ名を人の付くれば〈良寛〉
すると、貞心尼が続けて歌を詠みました。
山がらす里にい行かば子がらすも誘(いざな)ひてゆけ羽(はね)弱くとも〈貞心尼〉
良寛も続けました。
誘ひて行かば行かめど人の見て怪しめ見らばいかにしてまし〈良寛〉
すかさず、貞心尼は返しました。
鳶(とび)は鳶雀は雀鷺(さぎ)は鷺烏(からす)と烏なにか怪(あや)しき〈貞心尼〉
夕方になって、良寛は帰る前に歌を詠みました。
いざさらば我は帰らむ君はここにいやすくい寝よはや明日にせむ〈良寛〉
貞心尼は明日のことをたずねる歌を詠みました。
歌や詠まむ手毬やつかむ野にや出む君がまにまになして遊ばむ〈貞心尼〉
良寛も、歌で返しました。
歌や詠まむ手毬やつかむ野にや出む心一つを定めかねつも〈良寛〉


【声に出して読みたい良寛の歌11 貞心尼との唱和】

これぞこの 仏の道に 遊びつつ つくや尽きせぬ 御法(みのり)なるらん(貞心尼)

 (訳)手まりをつくことが 仏の教えにかなう遊戯三昧の境地であり、仏法の奥義なのでしょうか。私に仏法を教えていただけませんか。

つきてみよ 一二三四五六七八 九(ここ)の十(とを) 十とおさめて またはじまるを(良寛)

 (訳)あなたが作ってくれた手まりを私の前で無心についてみなさい、一二三四五六七八九の十と、十で終わり、また一から繰り返す、その繰り返しの中に、仏の教えが込められているのです。さあ、私について、今すぐ仏道修行を始めて、仏道を学び尽くしなさい。

君にかく あい見ることの 嬉(うれ)しさも まだ覚(さ)めやらぬ 夢かとぞ思う (貞心尼)

 (訳)お師匠様にこうやってはじめてお会いできたことをうれしく思う気持ちはとても言葉で言い表すことはできまでん。まるで夢を見ているようです。夢ならばいずれ覚めるのでしょうか。

 (語注)かく…こうやって

夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに(良寛)

 (訳)この世の中のことはすべてが夢のようにはかないものです。夢のようにはかないこの世の出来事(あなたが私と会ったこと)を、うとうとと眠って見た夢のようだとあなたが語ることも、あなたが見た夢(あなたが私と会ったこと)も、ともに夢のようにはかないこの世での出来事です。だから、あなたが語る夢はさめずに、夢のままでよいのです。

 (語注)まにまに…なりゆきにまかせよう

しろたえの 衣手(ころもで)寒し 秋の夜の 月中空(なかぞら)に 澄みわたるかも(良寛)

 (訳)着ている着物の袖のあたりが寒くなってきました。月が空の中ほど上り、どこまでも澄んでいます。(仏法の真理は輝くばかりに明白なのです。)

 (語注)白妙の…「衣」の枕詞

向かいいて 千代(ちよ)も八千代(やちよ)も 見てしがな 空ゆく月の こと問わずとも(貞心尼)

 (訳)仏法の象徴である月をいつまでも見ていたい、仏道の話をもっと聞いていたいのです。空行く月は言葉(仏法の真理)を言わないとしても、良寛さまから仏道の話を聞き続けたいのです。

 (語注)空ゆく月のこと問はずとも…空行く月は言葉を言わなくとも

心さえ 変わらざりせば 這(は)う蔦(つた)の 絶えず向かわん 千代も八千代も(良寛)

 (訳)仏道を極めようというあなたの心さえ変わらなければ、蔦がどこまでも伸びていくように、いつまでも向かい合って、またお話をしましょう。千年でも、八千年でも。

立ち帰り またも訪(と)い来ん たまぼこの 道の芝草 たどりたどりに(貞心尼)

 (訳)いったん帰って、またお師匠様をお訪ねいたします。お師匠様の庵へと続く道に生えている芝草を探し探ししながら。

 (語注)たまぼこの…「道」の枕詞


良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 国上山 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 国上山 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩11】

  宅辺有苦竹 宅辺(たくへん)に 苦竹(くちく)有り
  冷冷数千干 冷冷 数千干(かん)
  笋迸全遮路 笋(たけのこ)は迸(ほとばし)り 全(すべ)て路(みち)を遮(さえぎ)り
  梢斜高払天 梢(こずえ)は斜めに高く 天を払う
  経霜陪精神 霜を経(へ)て 陪(ますます)精神あり
  隔烟転幽間 烟(もや)を隔(へだ)てて 転(うたた) 幽間(ゆうかん)なり
  宜在松柏列 宜(よろ)しく 松柏(しょうはく)の列に在(あ)るべく
  何比桃李妍 何ぞ 桃李(とうり)の妍(けん)に比せん
  竿直節弥高 竿(かん) 直くして 節(せつ) 弥(いよいよ)高く
  心虚根愈堅 心(しん) 虚(きょ)にして 根(こん) 愈(いよいよ)堅し
  愛爾貞清質 爾(なんじ)が貞清(ていせい)の質を愛す
  千秋希莫遷 千秋 希(ねが)わくは遷(うつ)ること莫(なか)れ

【訳】
 草庵の周(まわ)りに竹林がある
 数千本もの竹は清々(すがすが)しい
 春になると道にも竹の子が生(は)えて通れなくなる
 梢は高く斜めになって 空を払うようだ
 霜に打たれると ますます気高(けだか)くなってくる
 春の靄(もや)がかかると いよいよ趣(おもむき)が奥深い
 竹は一年中緑で節操を変えない松や柏と同じ仲間であるべき
 どうして桃や李(すもも)の花の美しさとくらべられよう
 その幹(みき)は真っ直ぐで、節(ふし)はますます高く連なり
 中心は雑念のない虚しい空となり、根(ね)はますます堅く締(し)まっている
 竹よ お前の操(みさお)を変えない清らかさが大好きだ
 どうかいつまでもその本性を変えないでおくれ


【良寛ゆかりの地を訪ねて11 遷化の地・和島】
 良寛は69歳の年に島崎の木村家に移住しました。木村家には良寛が住んだ庵室の場所に「良寛禅師庵室跡碑」(揮毫は安田靫彦)があります。74歳で遷化した「良寛墓碑」が隆泉寺裏の木村家墓地にあります。和島には「良寛の里美術館」があるほか、「宇奈具志(うなぐし)神社」、「桐原石部(きりはらいそべ)神社」、「椿の森(熊野神社)」などで、子供たちと遊んだり、盆踊りをしたりしています。

庵室跡碑 良寛墓碑
木村家良寛庵室跡碑 隆泉寺良寛墓碑

【良寛を学ぼう11  『愛の人良寛 生涯とエピソード』】
 ほのぼのとした良寛さんの楽しいエピソード(逸話)をイラスト入りで紹介するとともに、良寛さんの生涯の謎(なぜ家出したのか、なぜを出家したのか、なぜ托鉢僧になったのか など)を明らかにした168ページの本です。執筆は野積良寛研究所長・本間明。
2024年4月発行。税込定価1,000円。



執筆者紹介
本間 明
2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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「良寛のこころ」第10回     2024.03.20 本間 明


【良寛の略伝10 木村家庵室時代】
 良寛は69歳の時、国上山を離れ、長岡市(旧和島村)島崎の木村家の広い屋敷の裏庭にあった小屋に移り住みました。
 弟子の遍澄(へんちょう)が地蔵堂(燕市)の願王閣の閣主に迎えられることになったため、老齢の良寛が病臥したときのことを考えて、遍澄が実家の近所である木村家にお世話していただくよう計らったようです。
 良寛の住み慣れた国上山を離れるときの寂しさ・惜別の情は強く、その思いを詠った歌集『くがみ』を書いています。長年、自然の豊かな国上山で暮らした良寛にとって、賑やかな島崎の町中での暮らしはなじめなかったのか、移住した翌年の夏の間、海と佐渡の見える寺泊の照明寺(しょうみょうじ)密蔵院で過ごしました。
 文政11年(1828)良寛71歳の11月12日、三条町を中心に大地震が発生しました。見附、今町、与板、長岡など被害は方十里に及び、倒壊家屋は2万1千軒、死者1500人余に達するという大惨事となりました。与板に住む友人の山田杜皐(とこう)に出した書簡の中に次の有名な言葉があります。「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」
 島崎の木村家の庵室に住む晩年の良寛と、与板の松下庵に隠栖していた弟の由之は、塩之入峠をお互いに行き来して、親密に交流しました。
 良寛は73歳の夏頃より痢病で苦しむようになりました。その良寛を、長岡の福島の閻魔堂に住む貞心尼や与板に隠栖していた弟の由之はたびたび訪ねて見舞っています。良寛の病気は直腸がんではなかったかと言われています。

歴史民俗資料館(和島)前の「良寛像」(作:長嶋栄次)
歴史民俗資料館(和島)前の「良寛像」(作:長嶋栄次)

【良寛の思想と生き方10 和顔愛語】
 仏教経典や道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』では、庶民を救うために庶民と接するにあたっては、菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)に基づくことを勧めています。江戸時代、農民は出家することが許されませんでした。そうした農民の苦しみを救うための方法のひとつが菩提薩埵四摂法でした。菩提薩埵とは菩薩のこと、四摂法とは布施、愛語、利行(りぎょう)、同事(どうじ)の4つの手段のことです。
 良寛は衆生を済度するために、この菩提薩埵四摂法を実践しました。良寛の布施、愛語、利行、同事は菩薩行だったのです。
 良寛は托鉢を行うことで布施(ふせ)を行いました。托鉢とは財施(ざいせ)と法施(ほうせ)などが同時に行われることです。人々からお米やお金などの財の布施をいただくと同時に、良寛は人々に様々なものを施しました。法施、無畏施(むいせ)、和顔施、愛語施、仏徳施などです。
 法施とは、托鉢の時に経文を唱えたり、仏の教えを話したりする布施です。
 無畏施とは、仏法の真理を知ることで、不安や恐怖がなくなるということを説いて安心させることです。
 和顔施とは、やさしい慈愛に満ちた表情で相手と接することです。
 愛語施とは、やさしい言葉を相手にかけることです。
 仏徳施とは、厳しい修行を積み、高い悟境に達した良寛の清らかな心、慈愛に満ちた仏の徳を体現した人格に接した人々が自然に感化を受けることです。
 良寛の托鉢での布施は法施、無畏施より、和顔施、愛語施、仏徳施が中心でした。また、托鉢以外でも、和歌を詠みかわすことや、良寛の心を詠った詩歌を書いた書を無償で与えることも布施でした。子ども達に行動で教えを諭すことも布施でした。愉快な行動で笑いを与えることも布施でした。笑いは健康になる効果があり、人を幸せにします。
 やさしい言葉をかける愛語を良寛は非常に重視しました。良寛は決して言葉をおろそかにしませんでした。数多くの戒語を残したのもそのためでした。
 良寛は、道元の正法眼蔵の「愛語」を丁寧に書き写しています。


【良寛のほっこり逸話10】
 島崎(長岡市和島地域)の床屋の長蔵は、天神様の掛け軸を持っていなかったので、良寛に書いて欲しいと頼みましたが、良寛は簡単には書いてくれません。あるとき良寛が長蔵のところに髪を剃りにいくと、長蔵は「今日こそは書いてください」と頼み込んで書いてもらいました。しかし、「天満大自在天神」と書くべきところ、長蔵に書いた字は「天満大自天神」と「在」の字が一字抜けていました。長蔵がそのことを良寛さんに言うと、良寛は「あんたはときどき頭の毛にそり残しがあるから、一字抜かしておいた。欲しけりゃ豆腐屋の九之助からもらいなさい。九之助はおからを買いに行くと、いつも一つかみずつまけてくれるから、「天満大自在在天神」と「在」の字を一字おまけして書いてやった」と言いました。


【声に出して読みたい良寛の歌10 仏道】
墨染(すみぞめ)の わが衣手(ころもで)の 広くありせば 世の中の 貧(まど)しき民を 覆(おお)わましもの(旋頭歌)
 (訳)墨染めの私の衣の袖が広かったならば、世の中の貧しい人々を覆ってやりたいなあ。
 (語注)衣手…袖  まどしき…貧しき 次の歌もあります。

墨染の わが衣手の 寛(ゆた)ならば うき世の民に 覆わましもの
あしびきの 山の案山子(かかし)の 汝(なれ)さえも 穂(ほ)拾(ひろ)う鳥を 守るちょうものを

 (訳)山の田の案山子よ、お前でさえも、穂をついばむ鳥から稲を守るというのに、私は人々を守ることもできないです。
 (語注)あしびきの…「山」の枕詞  ちょう…という

いかなるが 苦しきものと 問うならば 人を隔(へだ)つる 心と答えよ
 (訳)どのようなことが、つらいものであるかと問われたならば、人を疎み遠ざける心だと答えよう。
 (語注)いかなる…どのような  苦し…こらえにくい  隔つ…遮る、疎み遠ざける

いかにして 誠(まこと)の道に かないなん 千歳(ちとせ)のうちに ひと日なりとも
 (訳)どうにかして仏法の真実の道にふさわしい行いをしたいものだ。たとえ、千年のうちの一日だけでも。
 (語注)いかにして…なんとかして  誠の道…仏道、人としてめざすべき道

ますらをの 踏みけむ世々の 古道(ふるみち)は 荒れにけるかも 行(ゆ)く人なしに
 (訳)りっぱな男子が踏み固めたという、その長い代を続いてきた古道は、通る人もなく荒れたように、古くから伝わる学芸・宗教・道徳の正しい教えは、受け継いで行う人もなく、すたれてしまいました
 (語注)ますらお…りっぱな男子  古道…日本古来の学芸・宗教・道徳の伝統


良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 冬のはさ木 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 冬のはさ木 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩10】

  玄冬十一月 玄冬(げんとう) 十一月
  雨雪正霏霏 雨雪(うせつ) 正(まさ)に霏霏(ひひ)たり
  千山同一色 千山(せんざん) 同一の色
  万径人行稀 万径(ばんけい) 人行(じんこう)稀(まれ)なり(注)
  昔游総作夢 昔游(せきゆう) 総(す)べて夢と作(な)り
  草門深掩扉 草門 深く扉(とびら)を掩(おお)う
  終夜焼榾柮 終夜 榾柮(こつとつ)を焼(た)き
  静読古人詩 静かに古人(こじん)の詩を読む

 【訳】
 冬の十一月になり
 絶え間なく雨まじりの雪が降り続く
 山々は白一色
 どの道も通る人はいない
 昔のことはすべて夢のようだ
 草庵の扉を閉ざして暮らす
 夜は一晩中 節くれだった薪(たきぎ)を焼(た)いて
 静かに古人(寒山など)の詩を読む
 (注) 柳宗元(りゅうそうげん)の詩「江雪」に「千山鳥飛ぶこと絶え、万径人蹤(じんしょう)滅す」の句がある。


【良寛ゆかりの地を訪ねて10 托鉢の地・その他】
 良寛はかなり遠方まで出かけています。例えば、新発田市の五十公野から東にある米蔵の斎藤家を訪ね、漢詩(題は「藤氏別墅」)を賦しています。燕の中ノ口川の堤防で、子供にせがまれて書いた凧字「天上大風」の遺墨もあります。新幹線のつばめ三条駅の駐車場の中に天上大風の凧をあげる「良寛と子供像」があります。

旧斉藤家 良寛と子供像
新発田市米蔵の旧斉藤家 燕三条駅前の良寛と子供像

【良寛を学ぼう10 華厳の愛】
 良寛の晩年に親しく交流した若き尼僧・貞心尼。貞心尼と良寛の関係は恋だったのか愛だったのか。「はちすの露」の二人の純真な交流の歌にわかりやすい訳と丁寧な解説を加え、二人の交流の真摯な姿を描いた本が『華厳の愛 貞心尼と良寛の真実』。執筆は野積良寛研究所長・本間明。税込定価 1,980円。



執筆者紹介
本間 明
2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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「良寛のこころ」第9回     2024.02.20 本間 明


【良寛の略伝9 維馨尼との交流】
 与板の全国的な豪商・大坂屋三輪家の娘「おきし」は夫(和泉屋山田家の当主)の死後三輪家に戻り、与板の徳昌寺の虎斑和尚の弟子となって剃髪し、維馨尼(いきょうに)(1764~1822)となりました。三輪左一の姪です。
 徳昌寺が買い求めようとした大蔵経の代価(実際に購入したのは明版で、220両)を集めるため、55歳の維馨尼は、はるばる江戸へ勧進(募金)に出かけました。それを聞いた良寛は感激するとともに、維馨尼の身を案じて次の漢詩を書いて送りました。
  君 蔵経を求めんと欲し 遠く故園の地を離る
  吁嗟(ああ) 吾何をか道(い)はん 天寒し 自愛せよ
(訳文)
  あたなは大蔵経の費用を求めに、遠く故郷を離れ、江戸に出向かれた。
  ああ、あなたの尊い志に対して、私は何を申し上げようか。
  寒い季節です、からだをいたわってください。

円通寺公園の「童と良寛像」(作:平田郷陽)
円通寺公園の「童と良寛像」(作:平田郷陽)

【良寛の思想と生き方9 托鉢僧として生きる】
 良寛は国仙和尚のもと円通寺で長い間修行を続け、仏の道に生きる僧としての自分の生き方を模索しました。そして、そのたどりついた生き方とは、自らは清貧に暮らしつつ、生涯修行を続けるとともに、貧しくさまざまな苦しみをもつ多くの人々を救うことでした。
 ところが江戸時代の仏教界は徳川幕府の寺請制度によって、檀家からのお布施の収入が安定的に保証される一方、宗教本来が持つ民衆の魂の苦しみを救う活動が下火となり、葬式や法事などの儀式に力を入れるようになりました。この本来の姿からかけ離れていわば堕落した現状を良寛は嘆いたのです。
 良寛は釈尊が説いた本来の仏教に立ち帰らなければならないと考えていたのでしょう。釈尊は大きな伽藍(がらん)の寺に住むことなく、各地を托鉢しながら、仏法を弘(ひろ)めました。良寛も釈尊と同じ生き方を貫こうと考えたのでしょう。寺に住んで、住職になって、檀家からの布施で、檀家以上の生活をするという当時の一般的な僧侶の生活とは縁を切り、釈尊と同様に托鉢によって生きていく道を選んだのです。
 宗派や寺院という組織から離れ、一人の托鉢僧として生きていくことは、頻繁に災害や飢饉に襲われた江戸時代にあっては、決して生やさしいことではなく、茨(いばら)の道であったと言えるでしょう。
 また托鉢で村々をまわることは、多くの人々と触れ合うことが可能となります。そこで触れ合う人々に良寛はやさしい笑顔(和顔)とやさしい言葉(愛語)で接し、貧しくつらい日々の生活に疲れた人たちをなぐさめ、苦しみをやわらげていました。これが良寛の衆生済度(しゅじょうさいど)の方法であり、菩薩行だったのです。


【良寛のほっこり逸話9】
 地蔵堂(燕市分水地域)の西川の渡し船でのことでした。意地悪な船頭がいて、良寛が温和でさからわない性格であると聞き、本当かどうか試そうとしました。良寛がたまたま渡し船に一人で乗りました。渡し船が岸を離れたころ、船頭がわざと舟を揺らしました。そうしたところ、良寛は川の中に落ちてしまいました。泳げない良寛さんは、溺れそうになりました。船頭は驚いて、良寛さんを川の中から船に救いあげました。良寛は揺らされて川に落とされたことを恨んで怒るどころか、川の中から救い上げて助けてくれたことに対して、ひたすら船頭に感謝しました。その後、船頭は心を入れ替えて、意地悪な行いをしなくなったそうです。


【声に出して読みたい良寛の歌9 山かげ】
国上山(くがみやま) 岩の苔路(こけみち) 踏みならし 幾(いく)たび我(われ)は 来(き)たりけらしも
 (訳)国上山の苔の生えた岩だらけの道を、踏み歩いて慣れ親しんで、幾たび私は国上寺(こくじょうじ)までやってきたことでしょうか。
 (語注)苔道…苔の生えた岩道

山かげの 岩間を伝う 苔水(こけみず)の かすかに我は すみわたるかも
 (訳)山のかげにある岩の間を伝わって、苔の下ををかすかに水が流れるように、ひっそりと私は、山のかげにある庵に住み続けるでしょう。
 (語注)山かげの岩間を伝う苔水の…「かすかに」にかかる序詞  かすかに…さびしく、ひっそりと

山かげの 岩根もりくる 苔水の あるかなきかに 世をわたるかも
 (訳)山のかげにある大岩のその間からにじみ出してくる水が、苔をひたして流れているかどうかわからないように、私もいるのかいないのかわからないほどにして、この世の中を生きていこう。
 (語注)山かげの岩根もりくる苔水の…「あるかなきかに」にかかる序詞

山かげの 草の庵(いおり)は いと寒し 柴を焼(た)きつつ 夜を明かしてん
 (訳)山の陰にある粗末な庵はひどく寒い。囲炉裏で小枝を焼きながら、冬の長い夜が明けるのを待とう。
 (語注)柴…薪にする枝

山かげの 槙(まき)の板屋に 音はせねども 久方(ひさかた)の 雪の降る夜(よ)は著(しる)くぞありける(旋頭歌)
 (訳)山の陰にある杉の板で葺いた庵の屋根に、降る音はしないけれども、雪の降る夜は。その気配でよくわかります。
 (語注)槙…檜、杉などの常緑針葉樹の総称、ここでは杉  久方の…「雪」の枕詞  著く…はっきりとするさま、明かである


良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 初冬 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 初冬 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩9】

   乞食  乞食(こつじき)
  十字街頭乞食了 十字街頭(じゅうじがいとう) 食(じき)を乞い了(おわ)り
  八幡宮辺方徘徊 八幡宮辺(はちまんぐうへん) 方(まさ)に徘徊(はいかい)す
  児童相見共相語 児童相(あい)見て 共に相(あい)語る
  去年痴僧今又来 去年の痴僧(ちそう) 今又来ると

 【訳】
  托鉢
 にぎやかな街角で托鉢を終えた
 八幡宮(注)のあたりをぶらぶらと歩く
 私を見つけた子どもたちはお互いの顔を見合っていっしょに話した
 去年来たお馬鹿なお坊さんが今年もまた来たぞ
 (注) 八幡宮 三条市八幡町にある神社「三条八幡宮」


【良寛ゆかりの地を訪ねて9 托鉢の地・新潟】
 托鉢で訪れた岩室にある「田中の松」を題材した歌を多く読み、歌碑になっています。
 西蒲原、新潟市内などに托鉢にたびたび出かけ、多くの人達と交流して遺墨も残した良寛の歌碑が各地にあります。県立図書館には「いろは一二三碑」があります。南区新飯田には親友の有願うがん)が住んだ「円通庵」があり、有願さんと良寛さんの像があります。

県立図書館いろは一二三碑 岩室の田中の松歌碑
県立図書館いろは一二三碑 岩室の田中の松歌碑

【良寛を学ぼう9 実像にせまる3部作】
 子どもたちと遊んだ天真爛漫なお坊さんのイメージで語られがちな良寛ではあるが、その実像は仏教者・宗教者として高い境地に達していた。その良寛の実像にせまった3部作。
 執筆は野積良寛研究所長・本間明、いずれも(株)考古堂書店発行。
『良寛はアスペルガー症候群の天才だった』品切れ
『良寛は世界一美しい心を持つ菩薩だった』2200円(税込み)
『良寛は権力に抵抗した民衆救済者だった』品切れ
 品切れの本は、ネット通販(アマゾン、日本の古本屋など)で中古本をお求めいただくか、図書館からお借りしてください。



執筆者紹介
本間 明
2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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「良寛のこころ」第8回     2024.01.20 本間 明


【良寛の略伝8 乙子神社草庵時代】
 良寛は59歳の時、五合庵から少し下った乙子神社草庵に移住しました。
 移住の理由は、薪水の労が老いの身にこたえるようになったからか、五合庵が老朽化したためか、あるいは遍澄(へんちょう)が弟子入りして身の周りの面倒を見てくれるようになったので五合庵が手狭になったからでしょう。
 乙子神社草庵時代は、良寛の芸術がもっとも円熟したときでした。和歌は万葉調さらには良寛調といわれるほどであり、書もまた、点と線の調和の美しい独特の草書を書いています。
 乙子神社草庵時代にも良寛の妹「むら」や由之の長男・馬之助の妻「ゆう」、さらには大村光枝、解良叔問、維馨尼(いきょうに)などの親しかった人たちが亡くなっています。

西大畑公園の「良寛さん遊ぼ像」(作:峰村哲也)
西大畑公園の「良寛さん遊ぼ像」(作:峰村哲也)

【良寛の思想と生き方8 貧しい人々に寄り添う】
 神無月の頃、蓑一つだけ着た人が草庵の門に立って物乞(ものごい)をしたので、良寛は来ていた服を脱いで与えました。その夜に嵐が激しく吹いたので、良寛は歌を詠みました。
 いづこにか 旅寝しつらむ ぬば玉の 夜半(よわ)のあらしの うたて寒きに               ぬばたま…夜の枕詞             うたて…ひどく
 元旦に貧しい母子が救いをもとめに良寛を頼ってやってきました。良寛には母子に差し上げる食べ物も無かったので、解良叔問(しゅくもん)宛の手紙を書いて、母親に渡しました。
 牧ヶ花の庄屋の解良叔問は、この母子にお餅を与えたのでしょう。そのことに対する解良叔問への良寛のお礼の手紙が残っています。
 良寛は無一物だと誰もが知っているのに、それでも母子をして、良寛を頼って山中の草庵まで雪道を登らせた理由はなんでしょう。良寛こそ、そのままが仏さまだったのです。良寛さまならきっとお救い下さるという思いを抱かせるに足りた良寛こそ真の救済者だったのです。


【良寛のほっこり逸話8】
 長岡藩のお殿様牧野忠精(ただきよ)公が、良寛の名声が高いことから、長岡城下に良寛を招こうと考えました。そして五合庵に良寛を訪ね、立派な寺を用意するから、ぜひ長岡城下に来てほしいとお願いしました。ところが良寛は、「焚(た)くほどは風がもてくる落ち葉かな」という俳句を書いた紙をお殿様に渡したのです。私の庵(いおり)で燃やして煮たきするくらいは、風が吹くたびに運んでくれる落ち葉で、十分間に合います。だから私にとって、この山での暮らしは、物に乏しくとも心は満ち足りているのです。というような気持ちをこめて、お殿様のお願いをやんわりと断ったのです。
 この俳句の句碑が五合庵の前に建てられています。


【声に出して読みたい良寛の歌8】
あしびきの 山の撓(たお)りの もみぢ葉(ば)を 手折(たお)りてぞ来(こ)し 雨の晴れ間に
 (訳)山の尾根のくぼんだところの紅葉の葉を手で折り取ってきました。雨の降りやんだ間に。
 (語注)あしびきの…「山」の枕詞  撓り…山の尾根の低くなっているところ

わが宿を 訪ねて来ませ あしびきの 山の紅葉(もみぢ)を 手(たお)折りがてらに
 (訳)わたしの家を訪ねて来て下さい。国上山の美しく色づいた紅葉を、折り取るついでに。
 (語注)あしびきの…「山」の枕詞

秋山を わが越えくれば たまぼこの 道も照るまで もみぢしにけり
 (訳)秋の山を、私が越えて来ると、山道も赤く輝くほど、木々が紅葉していました。
 (語注)たまぼこの…「道」の枕詞

夕暮に 国上(くがみ)の山を 越え来れば 衣手(ころもで)寒し 木(こ)の葉散りつつ
 (訳)夕暮れどきに、国上山を越えて来ると、着物の袖のあたりが寒く感じられてきました。あたりには、木々の葉が散り続けています。
 (語注)衣手…袖

来て見れば わがふるさとは 荒れにけり 庭も籬(まがき)も 落ち葉のみして
 (訳)訪ねて来てみると、私の住みなれたところは、荒れてしまいました。庭にも垣根にも、落ち葉だけが散り積もっています。
 (語注)籬…竹や柴などで目を粗く編んだ垣根


良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 紅葉 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 紅葉 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩8】

   春暮  春暮
  芳草萋萋春将暮 芳草(ほうそう) 萋萋(せいせい)として 春将(まさ)に暮れんとし
  桃花乱点水悠悠 桃花(とうか) 乱点として 水悠悠(ゆうゆう)たり
  我亦従来忘機者 我も亦(また) 従来 忘機(ぼうき)の者
  悩乱風光殊未休 風光に悩乱(のうらん)せられて 殊(こと)に未(いま)だ休(や)まず

 【訳】
  春の暮れ
 萌えだした草はみずみずしく 春の日はいま暮れようとしている
 (新飯田(にいだ)の)桃の花はあちらこちら咲き始め (中ノ口川の)水はゆったり流れている
 私もまた(桃花や水と同じように諸法実相(しょほうじっそう)・真理の姿であり)世俗的な心のはたらきを滅却した人間なので
 美しい春の自然の風光(諸法実相の真理の現成(げんじょう)=自然の摂理)に魅了され続けている(自然の摂理と一体となって生きている)


【良寛ゆかりの地を訪ねて8 托鉢の地・三条】
 三条の「宝塔院」には同い年で親しかった隆全和尚がおり、ときおり坐禅のために滞在しました。「八幡宮」では子供たちと遊び、それを歌った詩碑があります。三条は菓子商の三浦屋幸助など文化に理解のある商人や親切にしてくれる人々が多く、良寛はたびたび三条を訪れました。

宝塔院 八幡宮良寛詩碑
宝塔院 八幡宮良寛詩碑

【良寛を学ぼう8 良寛 野の花の歌】
 晩年、木村家庵室のまわりに草花を植えるなど、野の花を愛した良寛。その良寛の花の名歌の数々を紹介した本が『良寛 野の花の歌』です。外山康雄氏の繊細にして優美な野の花の水彩画と、野積良寛研究所長・本間明が選ぶ良寛の野の花の名歌とその解説のコラボ。
 三大歌人の一人である良寛は、移り変わる季節の自然を愛し、清楚で可憐な野の花を題材とした歌をたくさん詠んでいます。
 2018 (株)考古堂書店 1,320円(税込み)134p



執筆者紹介
本間 明
2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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「良寛のこころ」第7回     2023.12.20 本間 明


【良寛の略伝7 橘屋の没落】
 文化7年(1810)良寛53歳の時、実家の橘を継いだ弟由之が訴えられていた裁判の判決が下されました。由之に家財取り上げ所払いの判決だったのです。生家橘屋は没落していきました。
 橘屋の一族を襲った悲しみを癒やすため、良寛は自筆稿本の歌集『ふるさと』や漢詩集『草堂集貫華(かんげ)』などを作りました。
 良寛が五合庵に住み始めて間もない頃に、弟(3男)の香が32歳で、末弟(四男)の宥澄(ゆうちょう)が31歳で、あいついで亡くなりました。
 橘屋に裁判の判決が下る前後に、由之の妻「やす」と町年寄高島伊八郎に嫁いだ妹「たか」が亡くなりました。良寛が50歳の年に、三輪左一が亡くなり、翌年には有願が亡くなりました。さらにその3年後には、大忍魯仙が若くして亡くなりました。こうして、良寛の兄弟や、良寛の知音(真価を理解してくれた友人)が次から次へと去って行ったのです。良寛の悲しみはいかばかりだったことでしょう。
 良寛の人格と詩歌書のすばらしさは徐々に越後の国中に知られるようになりました。そして、良寛を尊敬し慕う前途有望な若者たちが、五合庵に良寛を訪れるようになりました。長善館を設立した鈴木文臺(ぶんたい)とその兄桐軒、岩田洲尾、井上桐麿(きりまろ)、坂口文仲などです。

朝日山展望台の「良寛さんと毬」(作:茂木弘次)
朝日山展望台の「良寛さんと毬」(作:茂木弘次)

【良寛の思想と生き方7 命あるものへの愛の心】
 良寛の慈愛に満ちたやさしい心は人間はもちろん動物や虫、植物といった小さな命までも大切にしました。
 我宿の 草木にかくる 蜘蛛(くも)の糸 払わんとして かつはやめける
  かつは…すぐに
 木村家の娘「かの」が嫁ぐにあたって、嫁の心得を書いてほしいと頼まれて良寛が書いた戒語の中に、次の一条があります。
 「上をうやまい 下をあはれみ しょう(生)あるものとりけだものにいたるまで 情けをかくべき事」
 雨に濡れている松の木を人に見立てて詠った和歌があります。
 岩室の 田中に立てる 一つ松の木 今日見れば 時雨の雨に 濡れつつ立てり
 一つ松 人にありせば 笠貸さましを 蓑着せましを 一つ松あはれ
 夏の夜に借り物の蚊帳(かや)をつっても、良寛は毎晩片足だけは蚊帳の外に出して寝たという逸話があります。


【良寛のほっこり逸話7】
 良寛の甥(弟の由之の長男)馬之助が放蕩にふけって遊びほうけているといううわさが広まり、心配した母親が馬之助に説教してくれるよう良寛に頼みました。良寛は生家橘屋に出かけました。しかし、いざ何か言おうと思うと、どうしても言葉がでません。そのまま3日が過ぎ、良寛は暇(いとま)を告げ、ワラジを履(は)こうとしました。その時、良寛は馬之助を呼び、ワラジの紐(ひも)を結んでくれるように頼みました。馬之助は言われたとおりにワラジの紐を結び始めました。そのとき、馬之助の首筋に良寛の涙が一滴落ちたのです。馬之助は、はっとして見上げました。良寛は、頬に涙を伝わらせながら、黙ったままじっと甥の顔を見つめていました。そして無言のまま生家橘屋を立ち去りました。その日以来、馬之助は立ち直ってまじめな生活を送ったそうです。


【声に出して読みたい良寛の歌7】
月よみの 光を待ちて 帰りませ 山路(やまじ)は栗の 毬(いが)のしげきに
 (訳)月の光が射すまで待ってからお帰りなさい。山道には栗のいががたくさん落ちていますから。
 (語注)月よみの…月の神  しげきに…多いので

月よみの 光を待ちて 帰りませ 君が家路(いえじ)は 遠からなくに
 (訳)月の光が射すまで待ってからお帰りなさい。あなたの家まで行く道は、遠くないのだから。
 (語注)月よみの…月の神  君…阿部定珍

月夜善(よ)み 門田(かどた)の田居(たい)に 出て見れば 遠山(とおやま)もとに 霧立ちわたる
 (訳)月が美しいので、家の前の田んぼに出てみると、多くの山のふもとには、霧が立ちこめています。
 (語注)門田…家の門の前の田  田居…田んぼ

あしびきの 国上(くがみ)の山の 松かげに あらわれ出(いづ)る 月のさやけさ
 (訳)国上山の松の陰に、現れて出て来た月は、なんと澄んでいることだろう。
 (語注)さやけさ…澄んでいる、はっきりしている

あしびきの 黒坂山の 木(こ)の間より 洩(もり)り来る月の 影のさやけさ
 (訳)黒坂山の木々の間から、洩れてくる月の光の、なんと明るく澄んでいることだろう。
 (語注)黒坂山…旧和島村(現長岡市)にある山


良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 秋 」
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 秋 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩7】

  無欲一切足  欲無ければ 一切(いっさい)足り
  有求万事窮  求むる有れば 万事窮(きわ)まる
  淡菜可療饑  淡菜 饑(う)えを療(いや)す可(べ)く
  衲衣聊纏躬  衲衣(のうえ) 聊(いささ)か躬(み)に纏(まと)う
  独往伴糜鹿  独往(どくおう)して 糜鹿(びろく)を伴とし
  高歌和村童  高歌して 村童(そんどう)に和す
  洗耳巌下水  耳を洗う 巌下(がんか)の水
  可意嶺上松  意に可(か)なり 嶺上(れいじょう)の松

 【訳】
 欲がなければ、すべてに満足できる
 求める気持ちがあれば、すべてが満足できずに行き詰まる
 菜っ葉でも飢(う)えは満たされる
 僧衣もなんとか身にまとっている
 独りで山に出かけるときは、鹿たちと一緒に遊び
 大きな声で歌うときは、村の子供たちと一緒に歌う
 岩の下の流水で俗塵(ぞくじん)で汚れた耳を洗い清めれば(注)
 嶺(みね)の上で風に吹かれる松の音は心地よい
 (注) 洗耳 古代中国の皇帝堯(ぎょう)が箕山(きざん)の隠者許由(きょゆう)に天下を譲りたいと言った。許由は汚れた言葉を聞いたと言って、潁水(えいすい)のほとりで耳を洗ったという。


【良寛ゆかりの地を訪ねて7 交流の地・与板】
 与板には豪商大坂屋三輪家の別荘「楽山苑」があり、良寛の漢詩や書簡の碑があります。
 父以南の生家新木家の菩提寺でもあった「徳昌寺」には良寛と親交のあった三輪左一・維馨尼の墓があります。
 ほかにも、「新木家跡」、弟の「由之隠栖遺蹟」、親交のあった豪商「和泉屋山田家の跡」があります。
 良寛は晩年、与板に住んだ弟の由之や、和泉屋山田家の人々、愛弟子貞心尼と与板や島崎で親しく交流しました。

徳昌寺 楽山苑
徳昌寺 楽山苑

【良寛を学ぼう7 おすすめの良寛本】
 初心者・初級者向けの良寛の本はたくさんあります。その中からおすすめは、中野孝次の『良寛の呼ぶ聲』『良寛 心の歌』『風の良寛』、高橋 庄次『手毬つく良寛』、栗田 勇『良寛の読み方』などです。書店にない場合は、ネット通販(アマゾン、日本の古本屋など)で中古本をお求めいただくか、図書館からお借りしてください。



執筆者紹介
本間 明
2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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「良寛のこころ」第6回     2023.11.20 本間 明


【良寛の略伝6 五合庵時代】
 良寛は40歳の頃には、国上山(燕市)の国上寺境内の小さな五合庵に住むようになりました。五合庵では家具もほとんどなく、清貧に暮らし、坐禅修行と、村々への托鉢の生活を続けました。子供たちと毬つきなどで遊び、詩歌を詠み、その詩歌を書に書きました。
 45~6歳の頃、一時五合庵を離れ、長岡市寺泊の照明寺(しょうみょうじ)密蔵院、西生寺(さいしょうじ)などで仮住まいしました。五合庵は国上寺の隠居した住職のための住居だったので、その頃住職の義苗が隠居して五合庵に移ったため、良寛は立ち退いたのです。その後義苗が示寂すると、良寛はまた五合庵に入ったのでした。
五合庵に暮らす良寛を支援したり、詩歌のやりとりなどで交流した友人たちがたくさんいました。原田鵲斎(じゃくさい)、阿部定珍(さだよし)、解良叔問(しゅくもん)、有願(うがん)、三輪左一(さいち)、大忍魯仙(たいにんろせん)などです。
 良寛が四十四歳の時、江戸の国学者大村光枝(みつえ)が五合庵を訪ねました。良寛は万葉集や国学について、大村光枝から大きな影響を受けました。
 五十二歳の時、江戸の漢学者で書家であった亀田鵬斎(ぼうさい)が信州から越後に入り、三年ほど越後に滞在して各地の文人と交流しました。五合庵に良寛を訪ねており、意気投合したらしく、お互い相手のことを述べた漢詩があります。江戸の著名な文人であった亀田鵬斎が良寛の書を高く評価したことから、良寛の書は越後でも評価されるようになりました。

良寛と夕日の丘公園の「語らいの像」(作:茂木弘次)
良寛と夕日の丘公園の「語らいの像」(作:茂木弘次)

【良寛の思想と生き方6 愚】
 良寛は一見すると愚人のようであったという。無心無作(むしんむさ)に生きた良寛は他人の思惑には無関心で、他人との接触の際に俊敏な反応をとることがなかった。そのため、鈍感な、魯鈍な、愚かな人間と見られがちであったようだ。良寛は自分が愚であると思われていることを十分承知した上で、仏教者にとって愚こそ優れた素質であり、愚であることは、価値あるものと考えていた。愚であることこそが、悟りの境地に至った人間の姿なのである。
 中国の唐時代の禅の高僧の生き方も「愚」であった。南泉普願や薬山惟儼は言った「近ごろは、癡鈍(ちどん)な人間を探し求めても、一人も見つからぬ」。騰騰和尚は歌った「今日は任運騰騰、明日は騰騰任運」。懶瓚(らんざん)和尚は「兀然(ごつねん)として無事に坐し‥林下に睡って兀兀(ごつごつ)」たるのみだった。石頭和尚は草庵に住んで「飯しおわれば従容(のんびり)と睡りの快きを図る」だけだった。百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師は教えた。「粗食もて命をつなぎ,衣を補(つくろ)って寒暑をふせぎ、兀兀として愚の如く聾(ろう)の如くに相似せよ‥」
 円通寺の国仙和尚は良寛に「愚」に徹しろとその進むべき道を示し、「大愚良寛」という名を与えたのではないでしょうか。


【良寛のほっこり逸話6】
 あるとき良寛の住む国上山の五合庵にドロボウが忍びこみました。良寛の庵(いおり)には何も盗むべき家財がありませんでした。ドロボウは良寛が寝ている布団を盗もうとして、こっそりと引っ張り始めました。良寛は気づかないふりをして、わざと、ドロボウに布団を盗ませるため、寝返りを打って布団から抜け出しました。ドロボウが布団を持って、出て行った後、窓からは月が夜空に輝いて見えました。そこで良寛さんは、俳句を一句よみました。「盗人(ぬすびと)に取り残されし窓の月」


【声に出して読みたい良寛の歌6 農民に寄り添う歌】
ひさかたの 雨もふらなん あしびきの 山田の苗の かくるるまでに
 (訳)雨が降ってほしいなあ。山の中の田んぼに植えた稲の苗がかくれるまで。
 (語注)ひさかたの…「雨」の枕詞  あしびきの…「山」の枕詞

あしびきの 山田の小父(おじ)が ひねもすに い行(ゆ)きかえらい 水運ぶ見ゆ
 (訳)山の中の田んぼで、老農夫が一日中、行ったり来たりして、水を運んでいる養子が見える
 (語注)あしびきの…「山」の枕詞  小父…年寄り  ひねもすに…一日中  い行きかえらい…行ったり来たり

秋の雨の 日に日に降るに あしびきの 山田の爺(おじ)は 晩稲(おくて)刈るらん
 (訳)秋の冷たい雨が毎日降り続き、山あいの田んぼでは年老いた農夫が、おそく実った稲を刈っているだろう。
 (語注)あしびきの…「山田」の枕詞  爺…年老いた農夫

遠方(おちかた)ゆ しきりに貝の 音すなり 今宵(こよい)の雨に 堰(せき)崩(く)えなんか
 (訳)遠い向こうの方から、しきりに法螺(ほら)貝の音が聞こえてくる。激しく降り続いている今夜の雨で、堤防が崩れて、洪水になったのだろうか。
 (語注)遠方…遠い向こうの方から  貝…法螺貝、法螺貝を吹く音で非常事態を村人に知らせる


五合庵への道
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 五合庵への道 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩6】

 五合庵
  索索(さくさく)たる 五合庵 実に懸磬(けんけい)如く然り
  戸外杉千株 壁上偈(げ)数編
  釜中 (ふちゅう)時に塵有り 甑裏(そうり) 更に烟無し
  唯(ただ)東村に叟(そう)有り 頻(しき)りに叩く月下の門

 【訳】
  五合庵
 五合庵には何もない、実に「ヘ」の字の楽器の磬(けい)を懸けただけのようだ。
 庵の外には杉が立ち並び、壁には紙に書いた漢詩が数編貼ってある。
 釜には時に塵が積もり、米を蒸す甑(こしき)にはさらに烟りが昇ることもない。
 ただ東隣の村にいる長老が、月の美しい夜にはよく訪ねて来る。


【良寛ゆかりの地を訪ねて6 定住の地・国上山】
 39歳頃から69歳で島崎の木村家の庵室に移住するまで、良寛は国上(くがみ)山の「五合庵」で約20年「乙子神社草庵」で10年、合計で約30年間という人生の大半を過ごしました。五合庵は国上山の中腹にある越後の古刹「国上寺(こくじょうじ)」の隠居した住職のために庵でした。五合庵のすぐ下には、国上寺の塔頭(たっちゅう)「本覚院」と「宝珠院」があります。国上山の麓には、親交のあった「阿部家」「解良家」「原田家」があります。

五合庵 乙子神社草庵
五合庵 乙子神社草庵

【良寛を学ぼう6 良寛関係博物館等】
 良寛関係の主な博物館等が3つあります。そこを訪れることで、良寛をより詳しく知るとともに、良寛の芸術や心に触れあうことができます。
 出雲崎町良寛記念館   0258-78-2370
 燕市分水良寛良寛史料寛 0256-97-2428
 良寛の里美術館     0258-74-3700



執筆者紹介
本間 明
2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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「良寛のこころ」第5回     2023.10.20 本間 明


【良寛の略伝5 諸国行脚時代】
 良寛は円通寺での修業時代の後半から、ときどき諸国行脚の旅に出て、高僧のもとを訪ね、問答をしたりして修行を重ねました。
 34歳の年の春に国仙和尚が示寂し、秋に良寛は円通寺を立ち去り、諸国行脚の修行を続けました。帰国までの諸国行脚の旅で立ち寄った地は、次の場所などが分かっています。
 赤穂、明石、京都、弘川寺(西行墓所・大阪)、高野山、吉野、京都、須磨
 35歳の年の春に、国仙和尚一周忌の後、越後に帰国しました。帰国の理由は、前年に亡くなった大森子陽の墓参でしょう。
 帰国後半年ほど、寺泊の郷本の塩炊き小屋に仮住まいしました。このことは橘崑崙(こんろん)の『北越奇談』に記事があります。この記事から、良寛は近村を托鉢し、その日の食に足るときはすなわち帰り、食があまる時は乞食鳥獣に分かち与えるような生活をしていたようです。
 36歳から37歳にかけて、国仙和尚の三回忌に備中に行き、その後四国(あるいは九州・中国地方も?)、関東、会津、米沢に行ったものと思われます。
 38歳の春に越後に戻った良寬は五合庵に入庵できたようです。この年の夏、京都に出かけて脚気にかかっていた父以南が、桂川で入水自殺しました。
 39歳の春、以南の一周忌と、翌年の国仙和尚の七回忌の準備のため、京都、円通寺に行ったものと思われます。
 40歳の年には、以南の三回忌と国仙和尚の七回忌のため、定住していた五合庵を留守にして、円通寺まで出かけたものと思われます。この旅の途中で、長野の善光寺を訪れたようです。それ以来、良寛は越後を離れることはなかったと思われます。

燕市分水良寛史料館の「良寛さま像」(作:茂木弘次)
燕市分水良寛史料館の「良寛さま像」(作:茂木弘次)

【良寛の思想と生き方5 騰騰任運】
 禅僧の理想の生き方を表す言葉に「騰騰任運(とうとうにんぬん)」があります。「騰騰」とは馬が飛び跳ねるように元気よくというようなニュアンスですが、分別や知覚を超越して、何ものにも束縛されず、大道を進む状態の擬態語です。「任運(にんうん)」は一切の作為やはからいを捨て、あるがままに随い、屈託なくそのときそのときを精一杯生きることです。「随縁」も同じような意味です。「騰騰任運」とは、欲・作為・はからい・分別心を捨て、無心・無欲となり、そのときそのときを精一杯生ききること。そしてその結果の運命は受け入れるという生き方でしょう。良寛も漢詩の中で「騰騰」や「騰騰任天真」などの語句を使っており、「騰騰任運」の生き方を生涯貫きました。
 長谷川洋三氏は『良寛禅師の悟境と風光』(平成9年大法輪閣)の中で次のように述べています。「騰々」は「とらわれることなく、明るく自在で、ゆったりとして」程の意味である。(中略)道元禅における「任運」とは「精一杯の努力をした上で各人の徳分に応じて与えられるものに従うこと」なのであり、何もしないで成り行きに任せるという意味ではまったくない!」


【良寛のほっこり逸話5】
 越後に帰郷したばかりの良寛は、寺泊の郷本(ごうもと)の塩たき小屋の空き家を借りて住んでいました。ある時、浜辺のとある塩たき小屋が火事になって焼けてしまいました。放火した犯人に疑われた良寛は、村人に捕まって、生き埋めにされそうになりました。そこへ通りかかった夏戸(なつど)に住む医者の小越仲民(おごしちゅうみん)のとりなしで、良寛は命を救われました。良寛を連れ帰った仲民は、生き埋めにされそうになっても弁解もせず、淡々としている良寛に「なぜ、されるがままに黙っているのか」と問いました。すると良寛は「どうしよば、皆がそう思いこんだのだから、それでいいではないか」と答えたといいます。


【声に出して読みたい良寛の歌5 春の生き物の歌】
むらぎもの 心楽しも 春の日に 鳥のむらがり 遊ぶを見れば
 (訳)心が楽しくなるなあ。のどかな春の日に、小鳥たちが群がりながら遊んでいるのを見ると。
 (語注)むらぎもの…「心」の枕詞

あしびきの 青山越えて わが来れば 雉子(きぎす)鳴くなり その山もとに
 (訳)緑の山を越えて私がやって来ると、雉子(きじ)が鳴いているなあ。その山のふもとに。
 (語注)あしびきの…「山」の枕詞

春の野に 若菜摘(つ)みつつ 雉子(きじ)の声 きけば昔の 思おゆらくに
 (訳)春の野原で若菜を摘みながら、雉子の声を聞くと、昔のことがしみじみと思い出されることだなあ。
 (語注)思おゆ…思われる  らく…動詞を体言化する接尾語、「こと」の意を表す。

草の庵(いお)に 足さしのべて 小山田(おやまだ)の 山田のかわづ 聞かくしよしも
 (訳)粗末な草庵の中で、二本足を伸ばして、山の田で鳴いている蛙の声を聞くのは、楽しいものだ。
 (語注)聞かく…聞くこと  よし…楽しい

あしびきの 山田の田居(たい)に 鳴くかわづ 声のはるけき このゆうべかも
 (訳)山の田で鳴いている蛙の声が、はるか遠くから聞こえてくるようだ。今日の夕方は。
 (語注)あしびきの…「山田」の枕詞  はるけき…はるかな

百鳥(ももとり)の 鳴く山里は いつしかも かわづの声と なりにけるかな
 (訳)いろいろな鳥が春にさえずっていたこの山里は、いつの間にか夏になって、蛙の声が聞こえるようになったなあ。
 (語注)百鳥…いろいろな鳥、多くの鳥

春の野の かすめる中を 我が来れば 遠方(おちかた)里に 駒(こま)ぞいななく
 (訳)春の野に霞がかかっている中、私が野の道を歩いてくると、あちらの里から、馬のいななく声が聞こえてきます。
 (語注)遠方…あちらの方、遠方


良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 夕暮れの岡 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 夕暮れの岡 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩5】

   毬子 毬子(きゅうし)
  袖裏毬子直千金 袖裏(しゅうり)の毬子 直(あたい)千金
  謂言好手無等匹 謂(い)う 言(われ)は好手にして等匹(とうひつ)無しと
  可中意旨若相問 可中(かちゅう)(注1)の意旨(いし) 若(も)し相問(あいと)はば
  一二三四五六七 一二三四五六七(注2)

 【訳】
  手毬
 袖の中の手毬(てまり)は千金の値打ちがある
 わたしこそ手毬の名人であって、同じ腕前の人などいない
 手毬の極意(ごくい)(奥深い仏法の極意)を尋ねるならば
 一二三四五六七(ひふみよいむな)(普通でありのまま、そして無限、それが仏法)と答えよう
(注1)可中 箇中と書く場合もある。言葉では表すことのできない仏法の奥義を「この中」という指示語で表現している。
(注2)一二三四五六七 一から始まり十で終わり、また一から始める繰り返しは、仏道修行というものは生涯続けるものであり、毎日が坐禅や作務(さむ)などの同じ修行の繰り返しであるということ。さらに一二三四五六七…には、当たり前のこと、ありのままのことという意味もあり、「花は紅(くれない)柳は緑」という、あるがままの自然の摂理が仏法の真理であるという諸法実相(しょほうじっそう)の世界を表している。


【良寛ゆかりの地を訪ねて5 仮住の地・寺泊】
 越後にいったん帰国した良寛は、寺泊の郷本の塩炊き小屋に半年ほど過ごしました。郷本には「良寛空庵跡碑」があります。五合庵に定住した後、国上寺の住職が隠居して五合庵に入ることになり、一時的に、「西生寺(さいしょうじ)」や「照明寺密蔵院(みつぞういん)」などで仮住まいしました。晩年、島崎の木村家の庵室時代は、夏になると照明寺密蔵院に逗留しました。寺泊には妹の「むら」が外山家に嫁ぎ、「法福寺」に「むら」の墓があります。また三峰館時代の師であった「大森子陽の墓」も寺泊にあります。

照明寺密蔵院 西生寺
照明寺密蔵院 西生寺

【良寛を学ぼう5 ゆかりの地巡りガイド】
 野積良寛研究所では「良寛ゆかりの地巡り」のガイド(有料)も行っています。
1日コース(良寛堂、光照寺、照明寺密蔵院、国上寺、五合庵、乙子神社草庵、楽山苑、徳昌寺、木村家庵室跡、隆泉寺・良寛墓碑)のほか、出雲崎・寺泊・国上コース、地蔵堂・与板・和島コースなどがあります。お問合せは 本間 090-2488-8281 まで。



執筆者紹介
本間 明
2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

※当サイトの内容、画像等の無断転載を禁止します。










「良寛のこころ」第4回     2023.09.20 本間 明


【良寛の略伝4 円通寺時代】
 江戸時代、有数の修行道場だった備中玉島の円通寺で、良寛は国仙和尚の指導をうけながら、朝早くからの厳しい修行に明け暮れしました。
 天明3年(1783)、良寛が26歳のとき、母秀子が49歳で亡くなりました。
 ある程度修行が進んだ頃、国仙和尚から道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の提唱を受けたり、各地の高僧からも学ぶために諸国行脚にも出かけるようになりました。
 良寛に大きな影響を与えた高僧の一人に紫雲寺(越後)観音院の大而宗龍(だいにそうりゅう)がいます。
 円通寺で厳しい仏道修行を10年以上積んだ良寛は、33歳のときに、悟境が円熟して、修行が終了した証しとして、印可の偈を国仙和尚から授かりました。

   附良寛庵主   良寛庵主に附す
  良也愚如道転寛 良也(よいかな)愚の如く道転(うた)た寛(ひろ)し
  騰騰任運得誰看 騰騰任運(とうとうにんぬん)誰を得て看(み)しめん
  為附山形爛藤杖 為に附す山形爛藤(さんぎょうらんとう)の杖
  到處壁間午睡閑 到る處(ところ)壁間午睡(ごずい)の閑なれ
 (訳)
 良いぞ、まことに徹し、愚になりきっているお前の進む道はますます寛(ひろ)やかになってきた。
 分別心を働かせず無心になって精一杯生き、その結果の運命には身を任せるというお前の学んだ生き方をほかの誰が身につけて見せてくれるだろうか、それができるのはお前だけだ。
 その境地に達し、私の仏法を嗣いだことの証しとして、先端に枝のある自然木の杖を授けよう。
 この杖を持ってどこにでも行きなさい。そしてどこへ行こうとも、托鉢に出れば疲れ果てて民家の壁と壁の間で昼寝するくらいの厳しい修行で身につけた閑々地(かんかんち)の境地を保ち続けなさい。  翌年に国仙和尚が示寂した後、良寛は全てを捨てて円通寺を去り、まもなく故郷を目指しました。

道の駅国上の「良寛さん像」(作:茂木弘次)
道の駅国上の「良寛さん像」(作:茂木弘次)

【良寛の思想と生き方4 はからわない心】
 良寛は対立的な、相対的な価値感(美醜、是非、知愚、迷悟、浄穢(じょうえ)の一方を志向する心を超越し、中道に至り、さらにそこからも努力して超越することによって、すなわち一切のはからいを完全に滅却することによって、なにものにもとらわれない自由な心になり、心を安らかにできる悟りの境地に達すると考えていた。さらには悟りを得ようというはからいすら、捨て去るべきものと考えていた。
 賢(さか)しらな分別心や一切の作為を捨て去った良寛は、一見すると愚人に見えたといいます。
 無心に生きた良寛が托鉢でいただいたお米の入った鉢の子を持って座っていると、雀が良寛の肩や頭にとまり、鉢の子の米をついばんだという逸話があります。


【良寛のほっこり逸話4】
 あるとき良寛が、小川の橋を渡ろうとしました。すると子供たちが、「渡ってはだめだ」と言います。引き返そうとすると、「もどってはだめだ」とまた言います。「じゃあ、どうすればいいのかね」と良寛がたずねると、子供たちは「川へ落ちればよい」と言います。そこで良寛は言われたとおり、ドボンと川に飛び落ちました。はじめ子供たちは、しかられたら悪口をいって逃げていこうと思っていたのでしょう。しかし、良寛は子供たちの言うことをみんな受け入れて、とうとう川の中に飛び落ち、冷たい水に入ったままでいました。
 子供たちは、良寛さんにひどいことをしたことで、自分たちが親からしかられると思ったことでしょう。良寛さんは、どんな人にでも、無理な要求をするべきではないということを、言葉ではなく、その行いで子供たちに教えていたのです。


【声に出して読みたい良寛の歌4 花の詩】
この園の 梅の盛りと なりにけり わが老いらくの 時にあたりて
 (訳)この庭に咲く梅の花が盛りになりました。私自身は老いていく年代であるのに。
 (語注)老いらく…老年、年をとること

薪伐(たきぎこ)り この山陰(やまかげ)に 斧(おの)とりて いく度(たび)かきく 鶯(うぐいす)の声
 (訳)薪にする木を切るために、この山かげで斧をふるっているとき、何回か手を休めて、鶯の美しい声に耳を傾けました。
 (語注)伐り…木を切ること。

ひさかたの あまぎる雪と 見るまでに 降(ふ)るは桜の 花にぞありける
 (訳)空一面に雲や霧がかかって、雪が舞って降っているのかと見間違えるほど、降って来るのは桜の花びらでした。
 (語注)ひさかたの…「雪」の枕詞  天霧(あまぎ)る…空一面に曇る

むらぎもの 心はなぎぬ 永(なが)き日に これのみ園(その)の 林を見れば
 (訳)心はなごむなあ、日が長くなった暖かい春の日に、このお宅の庭の花咲く木々を見ると。
 (語注)むらぎもの…「心」の枕言葉

事(こと)足らぬ 身とは思わじ 柴の戸に 月もありけり 花もありけり
 (訳)自分には足りないものがあるとは思いません。簡素な庵りの中には何もなくても、外には美しい月もあります。花もあります。

この里の 桃の盛(さか)りに 来て見れば 流れに映(うつ)る 花のくれない
 (訳)この里に来てみると、桃の花がいっせいに咲きほこり、紅色の美しい花が川面に映っています。
 (語注)この里…良寛の親友有願(うがん)の住んでいた円通庵(田面庵(たのもあん))のある新飯田(にいだ)(現新潟市南区)


良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 越佐海峡 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 越佐海峡 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩4】

   驟雨 驟雨(しゅうう)
  今日乞食逢驟雨 今日(こんにち) 食(じき)を乞うて 驟雨に逢(あ)い
  暫時廻避古祠中 暫時 廻避(かいひ)す 古祠(こし)の中(うち)
  可咲一嚢与一鉢 咲(わら)う可(べ)し 一嚢(のう)と一鉢(ぱつ)と
  生涯蕭灑破家風 生涯 蕭灑(しょうさい)たり 破家(はか)(注)の風(ふう)

 【訳】
  驟雨
 今日、托鉢しているとにわか雨に遭(あ)った
 古い祠(ほころ)の中へ、少しばかり雨宿りに駆け込んだ
 笑って下さい。頭陀袋(ずたぶくろ)一つと鉢の子一つしか持たないのに、雨宿りに駆け込む姿を
 煩悩や妄想を吹き飛ばして自由になった私の生涯は無一物(むいちもつ)でさっぱりとしている
 (注) 破家 「破家」には、文化七年(1810)に、弟の由之(ゆうし)が裁判で敗れ、良寛の生家で出雲崎の名主だった橘屋が没落したという事実も念頭にあったものと思われる。


【良寛ゆかりの地を訪ねて4 諸国行脚の地】
 円通寺時代の後半から諸国行脚の修行を始めた良寬は国仙和尚が示寂した後、円通寺を離れ、諸国行脚の修行を始めました。円通寺時代では紫雲寺の観音院に行っています。
 円通寺を離れた34歳の良寬は赤穂、明石、高野山、吉野、京都、須磨などを訪ねています。35歳の良寬は国仙和尚の一周忌の後、玉島から、糸魚川を経ていったん帰国しました。寺泊の郷本の空庵で半年ほど過ごした良寛は小越家や乙子神社草庵で厳しい冬を過ごしたものと思われます。36歳の良寛は翌年にかけて、京都、玉島を経て四国、関東、柳津、米沢を旅したものと思われます。その後遅くとも39歳の年までには五合庵に定住しました。

柳津の圓蔵寺 高野紀行碑
柳津の圓蔵寺 高野紀行碑

【良寛を学ぼう4 良寛の講演会】
 毎年の良寛会全国大会では記念講演が行われるほか、良寛についての講演会が各地域で開催されています。野積良寛研究所所長本間明が講師を務める令和5年度の講演会の予定は次のとおり。お問合せは 本間 明 090-2488-8281 まで。
 2・4・6・8・10・12月 良寛さまを学ぶ会(寺泊温泉北新館)
 (10月は21日(土)テーマは「声に出して読みたい良寬さまの歌」。12月は16日(土)テーマは「良寬さまと貞心尼の歌物語」。)
  4月29日 良寛クラブ南魚沼の講演階(南魚沼市図書館)貞心尼のお話
  8月27日 巻良寛会の講演会(巻ふれあい福祉センター)愛語と良寛のお話
 11月 7日 しばた良寛講座(新発田市生涯学習センター)良寛と健康長寿のお話
 11月18日 新潟良寛会の講演会(新潟市クロスパル)良寛の逸話のお話し



執筆者紹介
本間 明
2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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「良寛のこころ」第3回     2023.08.20 本間 明


【良寛の略伝3 出家】
 17歳の頃、栄蔵は名主見習役となるため、「三峰館」を退学して出雲崎に戻りました。そして、この頃に一度結婚しましたが、出家するため半年あまりで離婚しました。
 名主見習役に就任してから、栄蔵はさまざまなトラブルを引き起こしました。代官と漁民のトラブルで調停役を務める立場でありながら、双方の怒りの声をそのまま相手方に伝え、トラブルの火に油を注いだという逸話があります。良寛は三峰館で学んでいた頃から、仏の道に進みたいという願望を持っていたと思われます。名主として必要な調整力や政治力はあまりなく、名主という職務の適性がないことを自覚していたのかもしれません。
 日頃の性に合わない名主見習約の仕事のストレスがたまっていたうえ、三峰館の先輩であり、町年寄に就任したばかりの敦賀屋長兵衛を父の以南が詰問した事件などもあり、18歳の夏、盆踊りのあと、青楼で朝まで過ごし、大金を使ってしまい、父から厳しく叱責されたのでしょう。榮蔵は、橘屋の当主の座は次男の由之に譲るという書き置きを残して、橘屋を出奔しました。父の以南が栄蔵を捜し出して橘屋に戻るよう説得するためか、代官所に5・6日の他出願いを出した記録が残っています。
 出奔後の生活はよくわかっていませんが、おそらく三峰館にいったん復学し、しばらくしてから、紫雲寺の観音院などで坐禅修行を始めました。
 出奔・出家の原因については諸説あります。
 三峰館の頃から仏の道に生きることが素願であったという説もあります。
 また、私塾長善館を創設した鈴木文臺(ぶんたい)は、「栄蔵はいったん家督を相続したが、出雲崎で盗賊の死刑に役目として立ち会い、帰宅してすぐに出家した」という記録を残しています。
 22歳の時、越後に巡錫してきた大忍国仙和尚により出雲崎町の光照寺で得度し、正式に僧となりました。そして大愚良寛という名をもらい、国仙和尚とともに備中玉島の円通寺に赴きました。

良寛堂の「良寛禅師座像」(作:桝沢清)
良寛堂の「良寛禅師座像」(作:桝沢清)

【良寛の思想と生き方3 こだわらない心】
 良寛は仏道修行によって、自分の考えなどに執着しない「こだわらない心」を持つに至った。ものごとへのこだわりや、執着を捨てることによって、何事にもとらわれない自由な心になると良寛は考えていた。良寛の漢詩(首句:夫人之在世)に次の句がある。
  我に似たれば非もまた是となし、我に異なれば是も非となす
  ただ己の是とする所を是とす、何ぞ他の非とする所を知らんや
 また、真(悟り)に執着することは妄であり、それが妄であることを悟ること(悟への執着を捨てること)が真であると述べている漢詩(首句:古仏留教法)もある。


【良寛のほっこり逸話3】
 良寛が縁側で朝食を食べようとしていたところ、お腹をすかした犬がやって来て、物欲しそうにしていました。良寛が茶碗に盛ったご飯を与えたところ、喜んで食べて、すぐになくなりました。またご飯を茶碗に盛ると、犬もまた良寛さんを見つめて催促します。また犬に与えて、茶碗に盛って、を繰り返すうちに、とうとうご飯はなくなってしまいました。良寛は朝食を食べることができず、そのまま托鉢(たくはつ)に出かけることにしました。犬は良寛のお供をしたといいます。
 良寛は夏になると、五合庵の近くの宝珠院から蚊帳(かや)を借りて使いました。蚊帳がないと全身蚊に喰われて眠れないからです。しかし、それでは蚊も生きて行けずに可哀想だ思い、片足だけ蚊帳から出して寝たそうです。
 五合庵の近所のお百姓さんたちが、五合庵のまわりが余りにも草ボウボウなので、雑草をキレイに刈ってしまいました。五合庵に帰った良寛は草のなくなった家のまわりを見渡して、嘆いたそうです。「これで虫たちの棲む家がなくなってしまったなあ」


【声に出して読みたい良寛の歌3 子を亡くした親への歌】
 江戸時代は天然痘が数年に一回流行し、多くの子供たちが亡くなった。良寛には子供を亡くした親の気持ちになって詠んだ哀傷歌がたくさんあります。
あづさゆみ 春も春とも 思おえず 過(す)ぎにし子らが ことを思えば
 (訳)春になったものの、とても春とは思えない、亡くなってしまった多くの子供たちのことを思うと。
 (語注)あづさゆみ…「春」の枕詞

人の子の 遊ぶをみれば にわたづみ 流るる涙 とどめかねつも
 (訳)よその家の子供が遊んでいるのを見ると、亡くなった自分の子供のことが思い出されて、流れる涙を抑えることができません。
 (語注)にわたづみ…「流るる」の枕詞

もの思い すべなき時は うち出(い)でて 古野に生(お)うる 薺(なずな)をぞ摘む
 (訳)亡くなった子供のことが思い出されて、悲しみで何に手をつけてよいかわからないような時は、子供が遊んでいた野原にでも出て、薺を探して摘んでみましょう。
 (語注)すべなき…術無き、なすべき手段がない

ますらおや 伴(とも)泣きせじと 思えども けむり見る時 むせかえりつつ
 (訳)ますらお‥立派な男子 けむり‥野辺での荼毘(だび)の煙り


良寛が歩いた国上山周辺の風景「 木漏れ日 」(撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )
良寛が歩いた国上山周辺の風景「 木漏れ日 」(撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩3】

 円通寺 円通寺
従来円通寺 円通寺に来たりて従(よ)り
幾回経冬春 幾回か冬春を経(へ)たる
門前千家邑 門前 千家の邑(ゆう)
乃不識一人 乃(すなわ)ち一人も識(し)らず(注1)
衣垢手自濯 衣垢(あか)づけば手をもって自ら濯(あら)い
食尽出城闉 食尽くれば城闉(じょういん)に出づ
曾読高僧伝 曾(かつ)て高僧の伝を読むに
僧可可清貧 僧は可可(かな)り清貧なり(注2)

 【訳】
  円通寺
 円通寺に修行に来てから
 もう何年かが過ぎた
 門前は賑(にぎ)やかな町並みだが
 特別に親しくしてくれる人は(多くの同僚にはいるが自分には)いない
 僧衣が汚れれば自分の手で洗い
 食糧がなくなれば町へ托鉢に出かける
 当時高僧の伝記を読んだ
 そこには清貧な生活をよしとされた高僧の生涯が多く記されていた
 (注1)不識一人 当時多くの雲水は布施をもらえるひいきの檀家を作って、そこに優先的に托鉢に回っていた。しかし、良寛は市中に托鉢に出ても、原則どおり、貧富の差なく、すべての家々を托鉢したものと思われる。
 (注2)僧可可清貧 この読み方には、「僧可(そうか)(二祖慧可)は清貧を可(か)とせり」、「僧は清貧に可(か)なる可(べ)し」などの説があるが、黒田紀也氏は「良寛と自然体(その三)─良寛の境涯─」(『越佐研究』第40号昭和55年)の中で、次のように述べている。
 「円通寺には黄檗(おうばく)版大蔵経6956巻があり、その中に高僧伝(梁 慧皎(えこう)撰14巻257人伝)がある。この高僧伝には一人一人の高僧の伝ごとに「僧可可清貧」という文があるという。可可は俗語で、質的には「かなり、ずいぶん」という意で、量的には「多くは、ほとんど」という意である。」
 私は良寛が読んだ高僧伝はこれであった可能性が高く、直訳すれば「僧可可(かなり)清貧と記されていた」ということになるのではないかと思う。


【良寛ゆかりの地を訪ねて3 修行の地・円通寺】
 曹洞宗の光照寺で22歳の良寛は、越後に巡錫してきた備中玉島・円通寺の国仙和尚のもとで得度し、そのまま国仙和尚とともに備中玉島(現倉敷市)の「円通寺」に赴いた。当時有数の修行道場だった曹洞宗の円通寺で厳しい修行を積んだ良寛は、33歳で国仙和尚から印可の偈を授かりました。

円通寺 円通寺良寛詩碑
円通寺 円通寺良寛詩碑

【良寛を学ぼう3 良寛ガイドブックシリーズ】
 良寛について初心者にもわかりやすい良寛ガイドブックシリーズがあります。いずれも100ページ未満の冊子で、カラー写真満載、ビジュアルカラフルな、読みやすくてわかりやすい冊子です。価格も200~400円とリーズナブル。お求めは、電話(本間 明 090-2488-8281)でお申し込みいただければ、すぐに郵送します。代金は郵便振替の払込取扱票を同封しますので、送料とともに郵便局で払込願います。手数料はご負担願います。
○ 良寛 清貧と慈愛の心 300円 ○ 良寛さまと貞心尼 200円 ○ 良寛 珠玉の言葉 300円 ○ 和歌でたどる良寛の生涯 300円 ○声に出して読みたい良寛の歌 400円 ○ 心に響く良寛の漢詩 400円 ○ 良寛ゆかりの地ガイドブック(全国版) 400円



執筆者紹介
本間 明
 2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
 現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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「良寛のこころ」第2回     2023.07.20 本間 明


【良寛の略伝2 少年時代】
 栄蔵は13歳の頃から、北越四大儒の一人と言われた儒学者の大森子陽が地蔵堂(燕市)で開いた学塾「三峰館(さんぽうかん)」に学びました。論語などの儒教の教えや漢詩文を熱心に学びました。良寛は記憶力は抜群で、藩儒を目指した親友富取之則(ゆきのり)と切磋琢磨し合う秀才だった。地蔵堂では親戚の中村家に下宿しました。
 少年時代の榮蔵の性格を示す逸話がある。「性魯直(せいろちょく)沈黙、恬澹寡慾(てんたんかよく)、人事を懶(ものう)しとし唯読書に耽(ふけ)る、衣襟(いきん)を正して人に対する能(あた)わず、人称して名主の昼行灯(ひるあんどん)息子といふ、父母是を憂う。」

円通寺の「玉島の良寛像」(作:宮本隆)
円通寺の「玉島の良寛像」(作:宮本隆)

【良寛の思想と生き方2 求めない心・清貧の生き方】
 良寛は円通寺時代、高僧の伝記を読み、みな清貧であったことを知ったほか、大而宗龍(だいにそうりゅう)禅師からも清貧の生き方を学んだ。
 良寛は仏道修行により、無為の心を身につけた。無為の心とは、求めない心、こだわらない心、はからわない心を持つことであり一切の作為を廃するもであった。
 求めない心とは、清貧に暮らし、金銭欲、所有欲、独占欲、消費欲、贅沢を求める心などを捨て、名誉、名声、地位、権力などを一切求めないことである。
 小さくて粗末な草庵を借りて住み、持っている物も一衣一鉢だけという極貧ともいえる清貧の生き方を実践したのが良寛である。
 良寛は人を信じて疑うことがなかった。人を疑うということは、自分が不利益をこうむことを警戒すること。つまり利益を求める心があることが前提になっている。したがって、利益を求める心がなければ、人を疑う必要はない。利益を求める心を持たない良寛は人を信じて決して疑うことがなかった。


【良寛のほっこり逸話2】
 良寛が国上山の草庵におられたとき、便所への縁側の下からタケノコが生えてきました。良寛は近所の農家に道具を借りに行きました。農家の人は、縁側の下のタケノコを切るためだと思い、クワを差し出したところ、良寛は、タケノコではなく縁側の板を切る道具だと言って、ノミやノコギリなどを借りていきました。そして、タケノコのために縁側の板を切ったのです。
 タケノコはさらに伸びて庇(ひさし)に届きそうになりました。良寛はタケノコの頭が庇につかえないように、ロウソクの炎で庇に穴をあけようとしました。しかしながら、庇だけでなく便所そのものが燃えてしまったのです。
 良寛は子供たちを連れて、野原へよく出かけました。野原を歩くとき、ときどき曲がりくねったり、ぴょんと飛んだりしました。不思議に思って、人がたずねると、良寛は「咲いている花がかわいそうだから、踏まないようにしていたのです」と言いました。


【声に出して読みたい良寛の歌2 鉢の子の歌】
鉢(はち)の子に すみれたんぽぽ こき混ぜて 三世(みよ)のほとけに 奉(たてまつ)りてな
 (訳)鉢の子の中に、すみれやたんぽぽの花を入れて、過去・現在・未来のすべての仏さまに、お供えしたいなあ。
 (語注)鉢の子…僧が托鉢(たくはつ)をするときにお米やお金などを入れてもらう器
     こき…接頭語  三世…過去、現在、未来

道の辺(べ)に すみれ摘(つ)みつつ 鉢の子を 忘れてぞ来(こ)し その鉢の子を
 (訳)道ばたですみれを摘み摘みしているうちに、だいじな鉢の子を置き忘れてしまいました。そのだいじな鉢の子を。

道の辺に すみれ摘みつつ 鉢の子を わが忘るれど 取る人もなし
鉢の子を わが忘るれども 取る人はなし 取る人はなし 鉢の子あはれ
 (訳)だいじな鉢の子を道ばたに置き忘れてきたが、だれも拾っていく人はいなかった。
拾っていく人はいなかった、その鉢の子のなんといとおしいことか。

飯乞(いいこ)うと わが来(こ)しかども 春の野に すみれ摘みつつ 時を経(へ)にけり
 (訳)家々を托鉢するつもりで来たのに、春の野原に咲くすみれを摘んでいるうち、つい時間を過ごしてしまいました。
 (語注)飯乞う…僧侶が家々を回って読経しお米やお金などをもらうこと、托鉢


良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 はざ木 」 )
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 はざ木 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩2】

花無心招蝶 花 無心にして 蝶を招き
蝶無心尋花 蝶 無心にして 花を尋(たず)ぬ
花開時蝶来 花 開く時 蝶来たり
蝶来時花開 蝶 来る時 花開く
吾亦不知人 吾(わ)れも亦(また) 人を知らず)
人亦不知吾 人も亦 吾れを知らず
不知従帝則 知らずして 帝の則(のり)に従う

 【訳】
 花は、招こうという心がなくても、自然に蝶を招き寄せる
 蝶は、尋ねようという心がなくても、自然に花を尋ねる
 花が開くときには、自然に蝶が来るし、
 蝶が来るときには、自然に花が開いている
 同じように、私も他人のことなどは眼中になく、
 他人も私のことなどは眼中にもないようになれば
 (お互いが、他人と比べて足りないものを求めるという心がないから、堯(ぎょう)や舜(しゅん)(注)の時代のように、)
 だれもが、知らず知らずのうちに、天帝の定めた天地自然の運行の法則(大自然の摂理)に従って、(分別知を働かせることもなく、一切が足りた思いで、)生きていけるのだ
 (注)堯、舜 中国古代神話に登場する君主。儒家により神聖視され、聖人と崇(あが)められた。


【良寛ゆかりの地を訪ねて2 学びの地・地蔵堂】
 分水町(現燕市分水)の中心部・地蔵堂には良寛が学んだ「三峰館」跡や、下宿していた「中村家」、良寛の弟子・遍澄が閣主となった「願王閣」、「燕市分水良寛史料館」などがあります。通水百周年を迎えた大河津分水路に関する資料を展示する「信濃川大河津資料館」もあります。

中村家 願王閣
中村家 願王閣

【良寛を学ぼう2 ホームページ良寛ワールド】
 良寛についての情報満載のホームページ「良寛ワールド」があります。内容は、「良寛 清貧と慈愛の心」「良寛の逸話」「良寛さまと貞心尼」「和歌でたどる良寛の生涯」「良寛珠玉の言葉」「良寛ゆかりの地」「良寛関係人物」「野積良寛研究所」「オープンガーデン良寛百花園」など。



執筆者紹介
本間 明
 2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
 現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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「良寛のこころ」第1回     2023.06.20 本間 明


【良寛の略伝1 橘屋と良寛の家族】
 良寛は1758年、佐渡からの金銀の積み上げ港として繁栄した北国(ほっこく)街道の宿場町出雲崎町で生まれました。実家の橘屋は出雲崎屈指の名家で廻船業などを営み、代々名主を務めていました。榮蔵(良寛の幼名)は橘家の長男として生まれ、名主を継ぐ立場でした。良寛の祖父母には実子がなく、新津の桂家の次男・新次郎を婿に、その妻として橘屋の分家の相川橘屋の娘・おのぶ を迎えました。しかし、桂家の長男が出奔したため、新次郎は桂家に引き戻され、おのぶ は橘屋の血を絶やさないため、新次郎と別れて養女となって橘屋に残り、名を秀とかえ、別の婿を迎えることになりました。その別の婿が与板の割元庄屋新木家の次男で、良寛の父となる以南です。以南は俳諧に秀で「北越蕉風中興の棟梁」といわれるほどでしたが、名主に求められる政治力は無く、尼瀬の名主であった京屋野口家と出雲崎の町年寄であった敦賀屋鳥井家との勢力争いで徐々に劣勢となり、橘屋は衰退していきました。良寛には3人の弟と3人の妹がいました。良寛が出家した後、次男の由之(ゆうし)が橘屋の名主となりました。

少年時代の良寛(榮蔵)像
道の駅出雲崎天領の里の「少年時代の良寛(榮蔵)像」

【良寛の思想と生き方1 正しく生きる】
 良寛は少年時代、大森子陽の学塾・三峰館で論語などを徹底的に学び、仁の思想を身に着けました。生涯にわたってやさしい心で人々と接しました。また、正しく生きることをとても重視しました。良寛は原理原則を重視する原理主義者的なところがありました。出家する前の名主見習時代、代官と漁民との間にトラブルが生じたとき、調停役として期待される名主の役目としては、円満に治めるために、双方をなだめなければならないのですが、馬鹿正直な良寛は、双方の相手への罵詈雑言(ばりぞうごん)をそのまま相手方に伝えてしまい、火に油を注ぐ形になったのです。代官に愚直を譴責(けんせき)された良寛は、論語の「人の生けるや直し」という人は正直に生きるべきだという教えを信じていたため、この教えを守っただけだったのです。このことをきっかけに、人情の薄い末世では虚妄、詐欺が賢いこととされてしまっていることを嘆いたため、良寛は仏門に入ったという説があります。


【良寛のほっこり逸話1】
 良寛は、村の子供たちと、手まりをついたり、オハジキをしたり、春の野で花や若菜をつんだり、草ずもうをしたりして、よく一緒になって遊びました。
 あるとき、子供たちと一緒にかくれんぼをして、良寛が積み重ねたワラの中に隠れていると、子供たちは、日が暮れそうになったので、良寛をそのままにして、みんなで家に帰ってしまいました。
 良寛は子供たちが黙って帰ったことを、うすうす感づいていたに違いありませんが、疑わないふりをして、そのまま隠れ続けているうちに、寝てしまいました。朝になって、村人が「良寛さま、何していなさるんだね」と問いかけると、良寛は「しっ、大きな声をだすと、子供たちに見つかってしまうじゃないか」と答えたそうです。
 この逸話は、子供たちに人を信じることの大切さを自らの行動で教えていたものなのです。


【声に出して読みたい良寛の歌1 子供たちと遊ぶ】
霞(かすみ)立つ ながき春日(はるひ)に 子どもらと 手まりつきつつ この日暮らしつ
 (訳)日が長くなった春、子供たちと手まりをつきながら、この一日遊び暮らしました。
 (語注)霞立つ…「春日」の枕詞。
この里に 手まりつきつつ 子どもらと 遊ぶ春日(はるひ)は 暮れずともよし
 (訳)この村里で、手まりをつきながら、子供たちと遊ぶ春の一日は、暮れなくてもよいなあ。
この宮の 森の木下(こした)に 子どもらと 遊ぶ春日(はるひ)に なりにけらしも
 (訳)この神社にある森の木の下で、子供たちと遊ぶ、のどかな春の日になりました。
いざ子ども 山辺(やまべ)に行(ゆ)かん すみれ見に 明日さえ散らば 如何(いか)にせんとか
 (訳)子供たちよ、さあ山のあたりにすみれ(雪割草?)の花を見に行こう。明日になって散ってしまっていたらどうするの。
子どもらよ いざ出(い)でいなん 伊夜日子(いやひこ)の 岡のすみれの 花におい見に
 (訳) 子供たちよさあでかけよう。弥彦の岡に咲いているすみれ(雪割草?)の花の美しい色つやを見に。
 (語注)花におい…花のにおうばかりの美しい色つや

良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 夏 」
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 夏 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩1】

生涯懶立身 生涯 身を立つるに懶(ものう)く
騰々任天真 騰々(とうとう) 天真に任す
嚢中三升米 嚢中(のうちゅう) 三升の米
炉辺一束薪 炉辺(ろへん) 一束(そく)の薪(たきぎ)
誰問迷悟跡 誰か問わん 迷悟(めいご)の跡(あと)
何知名利塵 何ぞ知らん 名利(みょうり)の塵(ちり)
夜雨草庵裡 夜雨 草庵の裡(うち)
双脚等閑伸 双脚(そうきゃく) 等閑(とうかん)に伸ばす

 【訳】
 私の生き様は、住職になって親孝行しようなどという考えを好ましくないものと思っており、
 ゆったりと、自分の心の中にある清らかな仏の心のおもむくままに任せて日々暮らしている
 頭陀袋(ずたぶくろ)の中には米が三升、
 囲炉裏端(いろりばた)には薪が一束(ひとたば)あり、これで十分だ
 迷いだの悟りだのに誰がとらわれようか、
 また、名誉や利益といったこの世の煩(わずら)わしさにどうして関わろうか
 雨の降る夜は草庵の囲炉裏端で、
 無心に(日頃の托鉢や坐禅で疲れた)両脚をまっすぐに伸ばしている


【良寛ゆかりの地を訪ねて1 生誕の地・出雲崎】
 出雲崎には良寛の生家・橘屋の跡地に建つ「良寛堂」などがあります。主な良寛史跡は、「光照寺‥良寛が国仙和尚のもとで得度した寺」「西照坊‥良寛一時期借り住まいした草庵」「良寛記念館‥良寛の遺墨と画壇の巨匠による絵画を通して良寛の温かい心に触れあえる。」

良寛堂 光照寺
良寛堂 光照寺

【良寛を学ぼう1 全国良寛会】
 全国の良寛ファンの団体があります。名称は「全国良寛会」。年会費3,000円の会員になると、入会時に良寛関係の資料が送付されるほか、良寛情報満載の会報「良寛だより」(16p)が年4回送付されます。また全国大会(記念講演・交流会・見学会など)や各種講演会等に参加できます。入会方法は郵便局の郵便振替の払込取扱票で年会費3,000円を払いこむだけ。入会金や入会申込書は不要です。払込取扱票の口座記号番号は 00620-0-1545 加入者名は 全国良寛会



執筆者紹介
本間 明
 2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
 現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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