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「良寛のこころ」第5回     2023.10.20 本間 明


【良寛の略伝5 諸国行脚時代】
 良寛は円通寺での修業時代の後半から、ときどき諸国行脚の旅に出て、高僧のもとを訪ね、問答をしたりして修行を重ねました。
 34歳の年の春に国仙和尚が示寂し、秋に良寛は円通寺を立ち去り、諸国行脚の修行を続けました。帰国までの諸国行脚の旅で立ち寄った地は、次の場所などが分かっています。
 赤穂、明石、京都、弘川寺(西行墓所・大阪)、高野山、吉野、京都、須磨
 35歳の年の春に、国仙和尚一周忌の後、越後に帰国しました。帰国の理由は、前年に亡くなった大森子陽の墓参でしょう。
 帰国後半年ほど、寺泊の郷本の塩炊き小屋に仮住まいしました。このことは橘崑崙(こんろん)の『北越奇談』に記事があります。この記事から、良寛は近村を托鉢し、その日の食に足るときはすなわち帰り、食があまる時は乞食鳥獣に分かち与えるような生活をしていたようです。
 36歳から37歳にかけて、国仙和尚の三回忌に備中に行き、その後四国(あるいは九州・中国地方も?)、関東、会津、米沢に行ったものと思われます。
 38歳の春に越後に戻った良寬は五合庵に入庵できたようです。この年の夏、京都に出かけて脚気にかかっていた父以南が、桂川で入水自殺しました。
 39歳の春、以南の一周忌と、翌年の国仙和尚の七回忌の準備のため、京都、円通寺に行ったものと思われます。
 40歳の年には、以南の三回忌と国仙和尚の七回忌のため、定住していた五合庵を留守にして、円通寺まで出かけたものと思われます。この旅の途中で、長野の善光寺を訪れたようです。それ以来、良寛は越後を離れることはなかったと思われます。

燕市分水良寛史料館の「良寛さま像」(作:茂木弘次)
燕市分水良寛史料館の「良寛さま像」(作:茂木弘次)

【良寛の思想と生き方5 騰騰任運】
 禅僧の理想の生き方を表す言葉に「騰騰任運(とうとうにんぬん)」があります。「騰騰」とは馬が飛び跳ねるように元気よくというようなニュアンスですが、分別や知覚を超越して、何ものにも束縛されず、大道を進む状態の擬態語です。「任運(にんうん)」は一切の作為やはからいを捨て、あるがままに随い、屈託なくそのときそのときを精一杯生きることです。「随縁」も同じような意味です。「騰騰任運」とは、欲・作為・はからい・分別心を捨て、無心・無欲となり、そのときそのときを精一杯生ききること。そしてその結果の運命は受け入れるという生き方でしょう。良寛も漢詩の中で「騰騰」や「騰騰任天真」などの語句を使っており、「騰騰任運」の生き方を生涯貫きました。
 長谷川洋三氏は『良寛禅師の悟境と風光』(平成9年大法輪閣)の中で次のように述べています。「騰々」は「とらわれることなく、明るく自在で、ゆったりとして」程の意味である。(中略)道元禅における「任運」とは「精一杯の努力をした上で各人の徳分に応じて与えられるものに従うこと」なのであり、何もしないで成り行きに任せるという意味ではまったくない!」


【良寛のほっこり逸話5】
 越後に帰郷したばかりの良寛は、寺泊の郷本(ごうもと)の塩たき小屋の空き家を借りて住んでいました。ある時、浜辺のとある塩たき小屋が火事になって焼けてしまいました。放火した犯人に疑われた良寛は、村人に捕まって、生き埋めにされそうになりました。そこへ通りかかった夏戸(なつど)に住む医者の小越仲民(おごしちゅうみん)のとりなしで、良寛は命を救われました。良寛を連れ帰った仲民は、生き埋めにされそうになっても弁解もせず、淡々としている良寛に「なぜ、されるがままに黙っているのか」と問いました。すると良寛は「どうしよば、皆がそう思いこんだのだから、それでいいではないか」と答えたといいます。


【声に出して読みたい良寛の歌5 春の生き物の歌】
むらぎもの 心楽しも 春の日に 鳥のむらがり 遊ぶを見れば
 (訳)心が楽しくなるなあ。のどかな春の日に、小鳥たちが群がりながら遊んでいるのを見ると。
 (語注)むらぎもの…「心」の枕詞

あしびきの 青山越えて わが来れば 雉子(きぎす)鳴くなり その山もとに
 (訳)緑の山を越えて私がやって来ると、雉子(きじ)が鳴いているなあ。その山のふもとに。
 (語注)あしびきの…「山」の枕詞

春の野に 若菜摘(つ)みつつ 雉子(きじ)の声 きけば昔の 思おゆらくに
 (訳)春の野原で若菜を摘みながら、雉子の声を聞くと、昔のことがしみじみと思い出されることだなあ。
 (語注)思おゆ…思われる  らく…動詞を体言化する接尾語、「こと」の意を表す。

草の庵(いお)に 足さしのべて 小山田(おやまだ)の 山田のかわづ 聞かくしよしも
 (訳)粗末な草庵の中で、二本足を伸ばして、山の田で鳴いている蛙の声を聞くのは、楽しいものだ。
 (語注)聞かく…聞くこと  よし…楽しい

あしびきの 山田の田居(たい)に 鳴くかわづ 声のはるけき このゆうべかも
 (訳)山の田で鳴いている蛙の声が、はるか遠くから聞こえてくるようだ。今日の夕方は。
 (語注)あしびきの…「山田」の枕詞  はるけき…はるかな

百鳥(ももとり)の 鳴く山里は いつしかも かわづの声と なりにけるかな
 (訳)いろいろな鳥が春にさえずっていたこの山里は、いつの間にか夏になって、蛙の声が聞こえるようになったなあ。
 (語注)百鳥…いろいろな鳥、多くの鳥

春の野の かすめる中を 我が来れば 遠方(おちかた)里に 駒(こま)ぞいななく
 (訳)春の野に霞がかかっている中、私が野の道を歩いてくると、あちらの里から、馬のいななく声が聞こえてきます。
 (語注)遠方…あちらの方、遠方


良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 夕暮れの岡 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 夕暮れの岡 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩5】

   毬子 毬子(きゅうし)
  袖裏毬子直千金 袖裏(しゅうり)の毬子 直(あたい)千金
  謂言好手無等匹 謂(い)う 言(われ)は好手にして等匹(とうひつ)無しと
  可中意旨若相問 可中(かちゅう)(注1)の意旨(いし) 若(も)し相問(あいと)はば
  一二三四五六七 一二三四五六七(注2)

 【訳】
  手毬
 袖の中の手毬(てまり)は千金の値打ちがある
 わたしこそ手毬の名人であって、同じ腕前の人などいない
 手毬の極意(ごくい)(奥深い仏法の極意)を尋ねるならば
 一二三四五六七(ひふみよいむな)(普通でありのまま、そして無限、それが仏法)と答えよう
(注1)可中 箇中と書く場合もある。言葉では表すことのできない仏法の奥義を「この中」という指示語で表現している。
(注2)一二三四五六七 一から始まり十で終わり、また一から始める繰り返しは、仏道修行というものは生涯続けるものであり、毎日が坐禅や作務(さむ)などの同じ修行の繰り返しであるということ。さらに一二三四五六七…には、当たり前のこと、ありのままのことという意味もあり、「花は紅(くれない)柳は緑」という、あるがままの自然の摂理が仏法の真理であるという諸法実相(しょほうじっそう)の世界を表している。


【良寛ゆかりの地を訪ねて5 仮住の地・寺泊】
 越後にいったん帰国した良寛は、寺泊の郷本の塩炊き小屋に半年ほど過ごしました。郷本には「良寛空庵跡碑」があります。五合庵に定住した後、国上寺の住職が隠居して五合庵に入ることになり、一時的に、「西生寺(さいしょうじ)」や「照明寺密蔵院(みつぞういん)」などで仮住まいしました。晩年、島崎の木村家の庵室時代は、夏になると照明寺密蔵院に逗留しました。寺泊には妹の「むら」が外山家に嫁ぎ、「法福寺」に「むら」の墓があります。また三峰館時代の師であった「大森子陽の墓」も寺泊にあります。

照明寺密蔵院 西生寺
照明寺密蔵院 西生寺

【良寛を学ぼう5 ゆかりの地巡りガイド】
 野積良寛研究所では「良寛ゆかりの地巡り」のガイド(有料)も行っています。
1日コース(良寛堂、光照寺、照明寺密蔵院、国上寺、五合庵、乙子神社草庵、楽山苑、徳昌寺、木村家庵室跡、隆泉寺・良寛墓碑)のほか、出雲崎・寺泊・国上コース、地蔵堂・与板・和島コースなどがあります。お問合せは 本間 090-2488-8281 まで。



執筆者紹介
本間 明
2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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「良寛のこころ」第4回     2023.09.20 本間 明


【良寛の略伝4 円通寺時代】
 江戸時代、有数の修行道場だった備中玉島の円通寺で、良寛は国仙和尚の指導をうけながら、朝早くからの厳しい修行に明け暮れしました。
 天明3年(1783)、良寛が26歳のとき、母秀子が49歳で亡くなりました。
 ある程度修行が進んだ頃、国仙和尚から道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の提唱を受けたり、各地の高僧からも学ぶために諸国行脚にも出かけるようになりました。
 良寛に大きな影響を与えた高僧の一人に紫雲寺(越後)観音院の大而宗龍(だいにそうりゅう)がいます。
 円通寺で厳しい仏道修行を10年以上積んだ良寛は、33歳のときに、悟境が円熟して、修行が終了した証しとして、印可の偈を国仙和尚から授かりました。

   附良寛庵主   良寛庵主に附す
  良也愚如道転寛 良也(よいかな)愚の如く道転(うた)た寛(ひろ)し
  騰騰任運得誰看 騰騰任運(とうとうにんぬん)誰を得て看(み)しめん
  為附山形爛藤杖 為に附す山形爛藤(さんぎょうらんとう)の杖
  到處壁間午睡閑 到る處(ところ)壁間午睡(ごずい)の閑なれ
 (訳)
 良いぞ、まことに徹し、愚になりきっているお前の進む道はますます寛(ひろ)やかになってきた。
 分別心を働かせず無心になって精一杯生き、その結果の運命には身を任せるというお前の学んだ生き方をほかの誰が身につけて見せてくれるだろうか、それができるのはお前だけだ。
 その境地に達し、私の仏法を嗣いだことの証しとして、先端に枝のある自然木の杖を授けよう。
 この杖を持ってどこにでも行きなさい。そしてどこへ行こうとも、托鉢に出れば疲れ果てて民家の壁と壁の間で昼寝するくらいの厳しい修行で身につけた閑々地(かんかんち)の境地を保ち続けなさい。  翌年に国仙和尚が示寂した後、良寛は全てを捨てて円通寺を去り、まもなく故郷を目指しました。

道の駅国上の「良寛さん像」(作:茂木弘次)
道の駅国上の「良寛さん像」(作:茂木弘次)

【良寛の思想と生き方4 はからわない心】
 良寛は対立的な、相対的な価値感(美醜、是非、知愚、迷悟、浄穢(じょうえ)の一方を志向する心を超越し、中道に至り、さらにそこからも努力して超越することによって、すなわち一切のはからいを完全に滅却することによって、なにものにもとらわれない自由な心になり、心を安らかにできる悟りの境地に達すると考えていた。さらには悟りを得ようというはからいすら、捨て去るべきものと考えていた。
 賢(さか)しらな分別心や一切の作為を捨て去った良寛は、一見すると愚人に見えたといいます。
 無心に生きた良寛が托鉢でいただいたお米の入った鉢の子を持って座っていると、雀が良寛の肩や頭にとまり、鉢の子の米をついばんだという逸話があります。


【良寛のほっこり逸話4】
 あるとき良寛が、小川の橋を渡ろうとしました。すると子供たちが、「渡ってはだめだ」と言います。引き返そうとすると、「もどってはだめだ」とまた言います。「じゃあ、どうすればいいのかね」と良寛がたずねると、子供たちは「川へ落ちればよい」と言います。そこで良寛は言われたとおり、ドボンと川に飛び落ちました。はじめ子供たちは、しかられたら悪口をいって逃げていこうと思っていたのでしょう。しかし、良寛は子供たちの言うことをみんな受け入れて、とうとう川の中に飛び落ち、冷たい水に入ったままでいました。
 子供たちは、良寛さんにひどいことをしたことで、自分たちが親からしかられると思ったことでしょう。良寛さんは、どんな人にでも、無理な要求をするべきではないということを、言葉ではなく、その行いで子供たちに教えていたのです。


【声に出して読みたい良寛の歌4 花の詩】
この園の 梅の盛りと なりにけり わが老いらくの 時にあたりて
 (訳)この庭に咲く梅の花が盛りになりました。私自身は老いていく年代であるのに。
 (語注)老いらく…老年、年をとること

薪伐(たきぎこ)り この山陰(やまかげ)に 斧(おの)とりて いく度(たび)かきく 鶯(うぐいす)の声
 (訳)薪にする木を切るために、この山かげで斧をふるっているとき、何回か手を休めて、鶯の美しい声に耳を傾けました。
 (語注)伐り…木を切ること。

ひさかたの あまぎる雪と 見るまでに 降(ふ)るは桜の 花にぞありける
 (訳)空一面に雲や霧がかかって、雪が舞って降っているのかと見間違えるほど、降って来るのは桜の花びらでした。
 (語注)ひさかたの…「雪」の枕詞  天霧(あまぎ)る…空一面に曇る

むらぎもの 心はなぎぬ 永(なが)き日に これのみ園(その)の 林を見れば
 (訳)心はなごむなあ、日が長くなった暖かい春の日に、このお宅の庭の花咲く木々を見ると。
 (語注)むらぎもの…「心」の枕言葉

事(こと)足らぬ 身とは思わじ 柴の戸に 月もありけり 花もありけり
 (訳)自分には足りないものがあるとは思いません。簡素な庵りの中には何もなくても、外には美しい月もあります。花もあります。

この里の 桃の盛(さか)りに 来て見れば 流れに映(うつ)る 花のくれない
 (訳)この里に来てみると、桃の花がいっせいに咲きほこり、紅色の美しい花が川面に映っています。
 (語注)この里…良寛の親友有願(うがん)の住んでいた円通庵(田面庵(たのもあん))のある新飯田(にいだ)(現新潟市南区)


良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 越佐海峡 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 越佐海峡 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩4】

   驟雨 驟雨(しゅうう)
  今日乞食逢驟雨 今日(こんにち) 食(じき)を乞うて 驟雨に逢(あ)い
  暫時廻避古祠中 暫時 廻避(かいひ)す 古祠(こし)の中(うち)
  可咲一嚢与一鉢 咲(わら)う可(べ)し 一嚢(のう)と一鉢(ぱつ)と
  生涯蕭灑破家風 生涯 蕭灑(しょうさい)たり 破家(はか)(注)の風(ふう)

 【訳】
  驟雨
 今日、托鉢しているとにわか雨に遭(あ)った
 古い祠(ほころ)の中へ、少しばかり雨宿りに駆け込んだ
 笑って下さい。頭陀袋(ずたぶくろ)一つと鉢の子一つしか持たないのに、雨宿りに駆け込む姿を
 煩悩や妄想を吹き飛ばして自由になった私の生涯は無一物(むいちもつ)でさっぱりとしている
 (注) 破家 「破家」には、文化七年(1810)に、弟の由之(ゆうし)が裁判で敗れ、良寛の生家で出雲崎の名主だった橘屋が没落したという事実も念頭にあったものと思われる。


【良寛ゆかりの地を訪ねて4 諸国行脚の地】
 円通寺時代の後半から諸国行脚の修行を始めた良寬は国仙和尚が示寂した後、円通寺を離れ、諸国行脚の修行を始めました。円通寺時代では紫雲寺の観音院に行っています。
 円通寺を離れた34歳の良寬は赤穂、明石、高野山、吉野、京都、須磨などを訪ねています。35歳の良寬は国仙和尚の一周忌の後、玉島から、糸魚川を経ていったん帰国しました。寺泊の郷本の空庵で半年ほど過ごした良寛は小越家や乙子神社草庵で厳しい冬を過ごしたものと思われます。36歳の良寛は翌年にかけて、京都、玉島を経て四国、関東、柳津、米沢を旅したものと思われます。その後遅くとも39歳の年までには五合庵に定住しました。

柳津の圓蔵寺 高野紀行碑
柳津の圓蔵寺 高野紀行碑

【良寛を学ぼう4 良寛の講演会】
 毎年の良寛会全国大会では記念講演が行われるほか、良寛についての講演会が各地域で開催されています。野積良寛研究所所長本間明が講師を務める令和5年度の講演会の予定は次のとおり。お問合せは 本間 明 090-2488-8281 まで。
 2・4・6・8・10・12月 良寛さまを学ぶ会(寺泊温泉北新館)
 (10月は21日(土)テーマは「声に出して読みたい良寬さまの歌」。12月は16日(土)テーマは「良寬さまと貞心尼の歌物語」。)
  4月29日 良寛クラブ南魚沼の講演階(南魚沼市図書館)貞心尼のお話
  8月27日 巻良寛会の講演会(巻ふれあい福祉センター)愛語と良寛のお話
 11月 7日 しばた良寛講座(新発田市生涯学習センター)良寛と健康長寿のお話
 11月18日 新潟良寛会の講演会(新潟市クロスパル)良寛の逸話のお話し



執筆者紹介
本間 明
2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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「良寛のこころ」第3回     2023.08.20 本間 明


【良寛の略伝3 出家】
 17歳の頃、栄蔵は名主見習役となるため、「三峰館」を退学して出雲崎に戻りました。そして、この頃に一度結婚しましたが、出家するため半年あまりで離婚しました。
 名主見習役に就任してから、栄蔵はさまざまなトラブルを引き起こしました。代官と漁民のトラブルで調停役を務める立場でありながら、双方の怒りの声をそのまま相手方に伝え、トラブルの火に油を注いだという逸話があります。良寛は三峰館で学んでいた頃から、仏の道に進みたいという願望を持っていたと思われます。名主として必要な調整力や政治力はあまりなく、名主という職務の適性がないことを自覚していたのかもしれません。
 日頃の性に合わない名主見習約の仕事のストレスがたまっていたうえ、三峰館の先輩であり、町年寄に就任したばかりの敦賀屋長兵衛を父の以南が詰問した事件などもあり、18歳の夏、盆踊りのあと、青楼で朝まで過ごし、大金を使ってしまい、父から厳しく叱責されたのでしょう。榮蔵は、橘屋の当主の座は次男の由之に譲るという書き置きを残して、橘屋を出奔しました。父の以南が栄蔵を捜し出して橘屋に戻るよう説得するためか、代官所に5・6日の他出願いを出した記録が残っています。
 出奔後の生活はよくわかっていませんが、おそらく三峰館にいったん復学し、しばらくしてから、紫雲寺の観音院などで坐禅修行を始めました。
 出奔・出家の原因については諸説あります。
 三峰館の頃から仏の道に生きることが素願であったという説もあります。
 また、私塾長善館を創設した鈴木文臺(ぶんたい)は、「栄蔵はいったん家督を相続したが、出雲崎で盗賊の死刑に役目として立ち会い、帰宅してすぐに出家した」という記録を残しています。
 22歳の時、越後に巡錫してきた大忍国仙和尚により出雲崎町の光照寺で得度し、正式に僧となりました。そして大愚良寛という名をもらい、国仙和尚とともに備中玉島の円通寺に赴きました。

良寛堂の「良寛禅師座像」(作:桝沢清)
良寛堂の「良寛禅師座像」(作:桝沢清)

【良寛の思想と生き方3 こだわらない心】
 良寛は仏道修行によって、自分の考えなどに執着しない「こだわらない心」を持つに至った。ものごとへのこだわりや、執着を捨てることによって、何事にもとらわれない自由な心になると良寛は考えていた。良寛の漢詩(首句:夫人之在世)に次の句がある。
  我に似たれば非もまた是となし、我に異なれば是も非となす
  ただ己の是とする所を是とす、何ぞ他の非とする所を知らんや
 また、真(悟り)に執着することは妄であり、それが妄であることを悟ること(悟への執着を捨てること)が真であると述べている漢詩(首句:古仏留教法)もある。


【良寛のほっこり逸話3】
 良寛が縁側で朝食を食べようとしていたところ、お腹をすかした犬がやって来て、物欲しそうにしていました。良寛が茶碗に盛ったご飯を与えたところ、喜んで食べて、すぐになくなりました。またご飯を茶碗に盛ると、犬もまた良寛さんを見つめて催促します。また犬に与えて、茶碗に盛って、を繰り返すうちに、とうとうご飯はなくなってしまいました。良寛は朝食を食べることができず、そのまま托鉢(たくはつ)に出かけることにしました。犬は良寛のお供をしたといいます。
 良寛は夏になると、五合庵の近くの宝珠院から蚊帳(かや)を借りて使いました。蚊帳がないと全身蚊に喰われて眠れないからです。しかし、それでは蚊も生きて行けずに可哀想だ思い、片足だけ蚊帳から出して寝たそうです。
 五合庵の近所のお百姓さんたちが、五合庵のまわりが余りにも草ボウボウなので、雑草をキレイに刈ってしまいました。五合庵に帰った良寛は草のなくなった家のまわりを見渡して、嘆いたそうです。「これで虫たちの棲む家がなくなってしまったなあ」


【声に出して読みたい良寛の歌3 子を亡くした親への歌】
 江戸時代は天然痘が数年に一回流行し、多くの子供たちが亡くなった。良寛には子供を亡くした親の気持ちになって詠んだ哀傷歌がたくさんあります。
あづさゆみ 春も春とも 思おえず 過(す)ぎにし子らが ことを思えば
 (訳)春になったものの、とても春とは思えない、亡くなってしまった多くの子供たちのことを思うと。
 (語注)あづさゆみ…「春」の枕詞

人の子の 遊ぶをみれば にわたづみ 流るる涙 とどめかねつも
 (訳)よその家の子供が遊んでいるのを見ると、亡くなった自分の子供のことが思い出されて、流れる涙を抑えることができません。
 (語注)にわたづみ…「流るる」の枕詞

もの思い すべなき時は うち出(い)でて 古野に生(お)うる 薺(なずな)をぞ摘む
 (訳)亡くなった子供のことが思い出されて、悲しみで何に手をつけてよいかわからないような時は、子供が遊んでいた野原にでも出て、薺を探して摘んでみましょう。
 (語注)すべなき…術無き、なすべき手段がない

ますらおや 伴(とも)泣きせじと 思えども けむり見る時 むせかえりつつ
 (訳)ますらお‥立派な男子 けむり‥野辺での荼毘(だび)の煙り


良寛が歩いた国上山周辺の風景「 木漏れ日 」(撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )
良寛が歩いた国上山周辺の風景「 木漏れ日 」(撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩3】

 円通寺 円通寺
従来円通寺 円通寺に来たりて従(よ)り
幾回経冬春 幾回か冬春を経(へ)たる
門前千家邑 門前 千家の邑(ゆう)
乃不識一人 乃(すなわ)ち一人も識(し)らず(注1)
衣垢手自濯 衣垢(あか)づけば手をもって自ら濯(あら)い
食尽出城闉 食尽くれば城闉(じょういん)に出づ
曾読高僧伝 曾(かつ)て高僧の伝を読むに
僧可可清貧 僧は可可(かな)り清貧なり(注2)

 【訳】
  円通寺
 円通寺に修行に来てから
 もう何年かが過ぎた
 門前は賑(にぎ)やかな町並みだが
 特別に親しくしてくれる人は(多くの同僚にはいるが自分には)いない
 僧衣が汚れれば自分の手で洗い
 食糧がなくなれば町へ托鉢に出かける
 当時高僧の伝記を読んだ
 そこには清貧な生活をよしとされた高僧の生涯が多く記されていた
 (注1)不識一人 当時多くの雲水は布施をもらえるひいきの檀家を作って、そこに優先的に托鉢に回っていた。しかし、良寛は市中に托鉢に出ても、原則どおり、貧富の差なく、すべての家々を托鉢したものと思われる。
 (注2)僧可可清貧 この読み方には、「僧可(そうか)(二祖慧可)は清貧を可(か)とせり」、「僧は清貧に可(か)なる可(べ)し」などの説があるが、黒田紀也氏は「良寛と自然体(その三)─良寛の境涯─」(『越佐研究』第40号昭和55年)の中で、次のように述べている。
 「円通寺には黄檗(おうばく)版大蔵経6956巻があり、その中に高僧伝(梁 慧皎(えこう)撰14巻257人伝)がある。この高僧伝には一人一人の高僧の伝ごとに「僧可可清貧」という文があるという。可可は俗語で、質的には「かなり、ずいぶん」という意で、量的には「多くは、ほとんど」という意である。」
 私は良寛が読んだ高僧伝はこれであった可能性が高く、直訳すれば「僧可可(かなり)清貧と記されていた」ということになるのではないかと思う。


【良寛ゆかりの地を訪ねて3 修行の地・円通寺】
 曹洞宗の光照寺で22歳の良寛は、越後に巡錫してきた備中玉島・円通寺の国仙和尚のもとで得度し、そのまま国仙和尚とともに備中玉島(現倉敷市)の「円通寺」に赴いた。当時有数の修行道場だった曹洞宗の円通寺で厳しい修行を積んだ良寛は、33歳で国仙和尚から印可の偈を授かりました。

円通寺 円通寺良寛詩碑
円通寺 円通寺良寛詩碑

【良寛を学ぼう3 良寛ガイドブックシリーズ】
 良寛について初心者にもわかりやすい良寛ガイドブックシリーズがあります。いずれも100ページ未満の冊子で、カラー写真満載、ビジュアルカラフルな、読みやすくてわかりやすい冊子です。価格も200~400円とリーズナブル。お求めは、電話(本間 明 090-2488-8281)でお申し込みいただければ、すぐに郵送します。代金は郵便振替の払込取扱票を同封しますので、送料とともに郵便局で払込願います。手数料はご負担願います。
○ 良寛 清貧と慈愛の心 300円 ○ 良寛さまと貞心尼 200円 ○ 良寛 珠玉の言葉 300円 ○ 和歌でたどる良寛の生涯 300円 ○声に出して読みたい良寛の歌 400円 ○ 心に響く良寛の漢詩 400円 ○ 良寛ゆかりの地ガイドブック(全国版) 400円



執筆者紹介
本間 明
 2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
 現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

※当サイトの内容、画像等の無断転載を禁止します。









「良寛のこころ」第2回     2023.07.20 本間 明


【良寛の略伝2 少年時代】
 栄蔵は13歳の頃から、北越四大儒の一人と言われた儒学者の大森子陽が地蔵堂(燕市)で開いた学塾「三峰館(さんぽうかん)」に学びました。論語などの儒教の教えや漢詩文を熱心に学びました。良寛は記憶力は抜群で、藩儒を目指した親友富取之則(ゆきのり)と切磋琢磨し合う秀才だった。地蔵堂では親戚の中村家に下宿しました。
 少年時代の榮蔵の性格を示す逸話がある。「性魯直(せいろちょく)沈黙、恬澹寡慾(てんたんかよく)、人事を懶(ものう)しとし唯読書に耽(ふけ)る、衣襟(いきん)を正して人に対する能(あた)わず、人称して名主の昼行灯(ひるあんどん)息子といふ、父母是を憂う。」

円通寺の「玉島の良寛像」(作:宮本隆)
円通寺の「玉島の良寛像」(作:宮本隆)

【良寛の思想と生き方2 求めない心・清貧の生き方】
 良寛は円通寺時代、高僧の伝記を読み、みな清貧であったことを知ったほか、大而宗龍(だいにそうりゅう)禅師からも清貧の生き方を学んだ。
 良寛は仏道修行により、無為の心を身につけた。無為の心とは、求めない心、こだわらない心、はからわない心を持つことであり一切の作為を廃するもであった。
 求めない心とは、清貧に暮らし、金銭欲、所有欲、独占欲、消費欲、贅沢を求める心などを捨て、名誉、名声、地位、権力などを一切求めないことである。
 小さくて粗末な草庵を借りて住み、持っている物も一衣一鉢だけという極貧ともいえる清貧の生き方を実践したのが良寛である。
 良寛は人を信じて疑うことがなかった。人を疑うということは、自分が不利益をこうむことを警戒すること。つまり利益を求める心があることが前提になっている。したがって、利益を求める心がなければ、人を疑う必要はない。利益を求める心を持たない良寛は人を信じて決して疑うことがなかった。


【良寛のほっこり逸話2】
 良寛が国上山の草庵におられたとき、便所への縁側の下からタケノコが生えてきました。良寛は近所の農家に道具を借りに行きました。農家の人は、縁側の下のタケノコを切るためだと思い、クワを差し出したところ、良寛は、タケノコではなく縁側の板を切る道具だと言って、ノミやノコギリなどを借りていきました。そして、タケノコのために縁側の板を切ったのです。
 タケノコはさらに伸びて庇(ひさし)に届きそうになりました。良寛はタケノコの頭が庇につかえないように、ロウソクの炎で庇に穴をあけようとしました。しかしながら、庇だけでなく便所そのものが燃えてしまったのです。
 良寛は子供たちを連れて、野原へよく出かけました。野原を歩くとき、ときどき曲がりくねったり、ぴょんと飛んだりしました。不思議に思って、人がたずねると、良寛は「咲いている花がかわいそうだから、踏まないようにしていたのです」と言いました。


【声に出して読みたい良寛の歌2 鉢の子の歌】
鉢(はち)の子に すみれたんぽぽ こき混ぜて 三世(みよ)のほとけに 奉(たてまつ)りてな
 (訳)鉢の子の中に、すみれやたんぽぽの花を入れて、過去・現在・未来のすべての仏さまに、お供えしたいなあ。
 (語注)鉢の子…僧が托鉢(たくはつ)をするときにお米やお金などを入れてもらう器
     こき…接頭語  三世…過去、現在、未来

道の辺(べ)に すみれ摘(つ)みつつ 鉢の子を 忘れてぞ来(こ)し その鉢の子を
 (訳)道ばたですみれを摘み摘みしているうちに、だいじな鉢の子を置き忘れてしまいました。そのだいじな鉢の子を。

道の辺に すみれ摘みつつ 鉢の子を わが忘るれど 取る人もなし
鉢の子を わが忘るれども 取る人はなし 取る人はなし 鉢の子あはれ
 (訳)だいじな鉢の子を道ばたに置き忘れてきたが、だれも拾っていく人はいなかった。
拾っていく人はいなかった、その鉢の子のなんといとおしいことか。

飯乞(いいこ)うと わが来(こ)しかども 春の野に すみれ摘みつつ 時を経(へ)にけり
 (訳)家々を托鉢するつもりで来たのに、春の野原に咲くすみれを摘んでいるうち、つい時間を過ごしてしまいました。
 (語注)飯乞う…僧侶が家々を回って読経しお米やお金などをもらうこと、托鉢


良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 はざ木 」 )
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 はざ木 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩2】

花無心招蝶 花 無心にして 蝶を招き
蝶無心尋花 蝶 無心にして 花を尋(たず)ぬ
花開時蝶来 花 開く時 蝶来たり
蝶来時花開 蝶 来る時 花開く
吾亦不知人 吾(わ)れも亦(また) 人を知らず)
人亦不知吾 人も亦 吾れを知らず
不知従帝則 知らずして 帝の則(のり)に従う

 【訳】
 花は、招こうという心がなくても、自然に蝶を招き寄せる
 蝶は、尋ねようという心がなくても、自然に花を尋ねる
 花が開くときには、自然に蝶が来るし、
 蝶が来るときには、自然に花が開いている
 同じように、私も他人のことなどは眼中になく、
 他人も私のことなどは眼中にもないようになれば
 (お互いが、他人と比べて足りないものを求めるという心がないから、堯(ぎょう)や舜(しゅん)(注)の時代のように、)
 だれもが、知らず知らずのうちに、天帝の定めた天地自然の運行の法則(大自然の摂理)に従って、(分別知を働かせることもなく、一切が足りた思いで、)生きていけるのだ
 (注)堯、舜 中国古代神話に登場する君主。儒家により神聖視され、聖人と崇(あが)められた。


【良寛ゆかりの地を訪ねて2 学びの地・地蔵堂】
 分水町(現燕市分水)の中心部・地蔵堂には良寛が学んだ「三峰館」跡や、下宿していた「中村家」、良寛の弟子・遍澄が閣主となった「願王閣」、「燕市分水良寛史料館」などがあります。通水百周年を迎えた大河津分水路に関する資料を展示する「信濃川大河津資料館」もあります。

中村家 願王閣
中村家 願王閣

【良寛を学ぼう2 ホームページ良寛ワールド】
 良寛についての情報満載のホームページ「良寛ワールド」があります。内容は、「良寛 清貧と慈愛の心」「良寛の逸話」「良寛さまと貞心尼」「和歌でたどる良寛の生涯」「良寛珠玉の言葉」「良寛ゆかりの地」「良寛関係人物」「野積良寛研究所」「オープンガーデン良寛百花園」など。



執筆者紹介
本間 明
 2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
 現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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「良寛のこころ」第1回     2023.06.20 本間 明


【良寛の略伝1 橘屋と良寛の家族】
 良寛は1758年、佐渡からの金銀の積み上げ港として繁栄した北国(ほっこく)街道の宿場町出雲崎町で生まれました。実家の橘屋は出雲崎屈指の名家で廻船業などを営み、代々名主を務めていました。榮蔵(良寛の幼名)は橘家の長男として生まれ、名主を継ぐ立場でした。良寛の祖父母には実子がなく、新津の桂家の次男・新次郎を婿に、その妻として橘屋の分家の相川橘屋の娘・おのぶ を迎えました。しかし、桂家の長男が出奔したため、新次郎は桂家に引き戻され、おのぶ は橘屋の血を絶やさないため、新次郎と別れて養女となって橘屋に残り、名を秀とかえ、別の婿を迎えることになりました。その別の婿が与板の割元庄屋新木家の次男で、良寛の父となる以南です。以南は俳諧に秀で「北越蕉風中興の棟梁」といわれるほどでしたが、名主に求められる政治力は無く、尼瀬の名主であった京屋野口家と出雲崎の町年寄であった敦賀屋鳥井家との勢力争いで徐々に劣勢となり、橘屋は衰退していきました。良寛には3人の弟と3人の妹がいました。良寛が出家した後、次男の由之(ゆうし)が橘屋の名主となりました。

少年時代の良寛(榮蔵)像
道の駅出雲崎天領の里の「少年時代の良寛(榮蔵)像」

【良寛の思想と生き方1 正しく生きる】
 良寛は少年時代、大森子陽の学塾・三峰館で論語などを徹底的に学び、仁の思想を身に着けました。生涯にわたってやさしい心で人々と接しました。また、正しく生きることをとても重視しました。良寛は原理原則を重視する原理主義者的なところがありました。出家する前の名主見習時代、代官と漁民との間にトラブルが生じたとき、調停役として期待される名主の役目としては、円満に治めるために、双方をなだめなければならないのですが、馬鹿正直な良寛は、双方の相手への罵詈雑言(ばりぞうごん)をそのまま相手方に伝えてしまい、火に油を注ぐ形になったのです。代官に愚直を譴責(けんせき)された良寛は、論語の「人の生けるや直し」という人は正直に生きるべきだという教えを信じていたため、この教えを守っただけだったのです。このことをきっかけに、人情の薄い末世では虚妄、詐欺が賢いこととされてしまっていることを嘆いたため、良寛は仏門に入ったという説があります。


【良寛のほっこり逸話1】
 良寛は、村の子供たちと、手まりをついたり、オハジキをしたり、春の野で花や若菜をつんだり、草ずもうをしたりして、よく一緒になって遊びました。
 あるとき、子供たちと一緒にかくれんぼをして、良寛が積み重ねたワラの中に隠れていると、子供たちは、日が暮れそうになったので、良寛をそのままにして、みんなで家に帰ってしまいました。
 良寛は子供たちが黙って帰ったことを、うすうす感づいていたに違いありませんが、疑わないふりをして、そのまま隠れ続けているうちに、寝てしまいました。朝になって、村人が「良寛さま、何していなさるんだね」と問いかけると、良寛は「しっ、大きな声をだすと、子供たちに見つかってしまうじゃないか」と答えたそうです。
 この逸話は、子供たちに人を信じることの大切さを自らの行動で教えていたものなのです。


【声に出して読みたい良寛の歌1 子供たちと遊ぶ】
霞(かすみ)立つ ながき春日(はるひ)に 子どもらと 手まりつきつつ この日暮らしつ
 (訳)日が長くなった春、子供たちと手まりをつきながら、この一日遊び暮らしました。
 (語注)霞立つ…「春日」の枕詞。
この里に 手まりつきつつ 子どもらと 遊ぶ春日(はるひ)は 暮れずともよし
 (訳)この村里で、手まりをつきながら、子供たちと遊ぶ春の一日は、暮れなくてもよいなあ。
この宮の 森の木下(こした)に 子どもらと 遊ぶ春日(はるひ)に なりにけらしも
 (訳)この神社にある森の木の下で、子供たちと遊ぶ、のどかな春の日になりました。
いざ子ども 山辺(やまべ)に行(ゆ)かん すみれ見に 明日さえ散らば 如何(いか)にせんとか
 (訳)子供たちよ、さあ山のあたりにすみれ(雪割草?)の花を見に行こう。明日になって散ってしまっていたらどうするの。
子どもらよ いざ出(い)でいなん 伊夜日子(いやひこ)の 岡のすみれの 花におい見に
 (訳) 子供たちよさあでかけよう。弥彦の岡に咲いているすみれ(雪割草?)の花の美しい色つやを見に。
 (語注)花におい…花のにおうばかりの美しい色つや

良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 夏 」
良寛が歩いた国上山周辺の風景 「 夏 」 (撮影:風景写真企画 光彩の家 主宰 赤塚 一 )

【心に響く良寛の漢詩1】

生涯懶立身 生涯 身を立つるに懶(ものう)く
騰々任天真 騰々(とうとう) 天真に任す
嚢中三升米 嚢中(のうちゅう) 三升の米
炉辺一束薪 炉辺(ろへん) 一束(そく)の薪(たきぎ)
誰問迷悟跡 誰か問わん 迷悟(めいご)の跡(あと)
何知名利塵 何ぞ知らん 名利(みょうり)の塵(ちり)
夜雨草庵裡 夜雨 草庵の裡(うち)
双脚等閑伸 双脚(そうきゃく) 等閑(とうかん)に伸ばす

 【訳】
 私の生き様は、住職になって親孝行しようなどという考えを好ましくないものと思っており、
 ゆったりと、自分の心の中にある清らかな仏の心のおもむくままに任せて日々暮らしている
 頭陀袋(ずたぶくろ)の中には米が三升、
 囲炉裏端(いろりばた)には薪が一束(ひとたば)あり、これで十分だ
 迷いだの悟りだのに誰がとらわれようか、
 また、名誉や利益といったこの世の煩(わずら)わしさにどうして関わろうか
 雨の降る夜は草庵の囲炉裏端で、
 無心に(日頃の托鉢や坐禅で疲れた)両脚をまっすぐに伸ばしている


【良寛ゆかりの地を訪ねて1 生誕の地・出雲崎】
 出雲崎には良寛の生家・橘屋の跡地に建つ「良寛堂」などがあります。主な良寛史跡は、「光照寺‥良寛が国仙和尚のもとで得度した寺」「西照坊‥良寛一時期借り住まいした草庵」「良寛記念館‥良寛の遺墨と画壇の巨匠による絵画を通して良寛の温かい心に触れあえる。」

良寛堂 光照寺
良寛堂 光照寺

【良寛を学ぼう1 全国良寛会】
 全国の良寛ファンの団体があります。名称は「全国良寛会」。年会費3,000円の会員になると、入会時に良寛関係の資料が送付されるほか、良寛情報満載の会報「良寛だより」(16p)が年4回送付されます。また全国大会(記念講演・交流会・見学会など)や各種講演会等に参加できます。入会方法は郵便局の郵便振替の払込取扱票で年会費3,000円を払いこむだけ。入会金や入会申込書は不要です。払込取扱票の口座記号番号は 00620-0-1545 加入者名は 全国良寛会



執筆者紹介
本間 明
 2014年、県三条地域振興局健康福祉環境部長を最後に、新潟県を定年の3年前に早期退職
 現在 全国良寛会理事、野積良寛研究所所長、オープンガーデン良寛百花園園主

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